[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今年の公演もやっと半分を過ぎた。
折り返し地点。
此処から必要なのは、己の体力だけだった。
何年も舞台に立たせてもらっている自分は、きちんとその事を知っている。
けれど、守るべき座長は体力を過信し過ぎて不安になった。
貴方のは、体力じゃなくて精神力です。
何度言ってもふんわりと笑うだけ。
舞台の上の煌めきを無に帰してしまうような柔らかな表情だった。
今年も座長の体重係を務めている苦労人は、重い溜息を零す。
それに同情するように、ダンサーが彼の肩をぽんと叩いた。
「光一君!これも食べて下さい!!」
「……えー、いらんって」
「こら、屋良!ちゃんと食え。これお前の分だからな」
「俺、こんなに食えねえって」
「おい、町田!好き嫌いすんな。栄養バランス考えて食えって言ってるだろ」
「……嫌いなんだよ」
恒例の食事会。
主要メンバーのテーブルが非常に騒がしい。
騒いでいるのは、米花唯一人だけだったが。
気の毒そうにそのテーブルを見詰める共演者やスタッフは、それでも自分の食事を楽しむべく視線を逸らした。
彼らのマネージャーすら、二つ離れたテーブルで食べている。
はあ、と溜息を零す米花が顔の割に物凄く優しい人間である事を、カンパニーのメンバーは全員知っていた。
勿論、同じテーブルに座る同僚もそれは分かり過ぎる程に分かっている。
「米花も、食わなあかんやん。俺らの心配し過ぎやで」
「俺は放っといても食えるんで大丈夫です」
光一の言葉を一蹴して、箸の止まっている彼の口へ直接焼けた肉を運んだ。
餌付けをされた雛鳥は、その箸を拒まずに受け入れる。
もぐもぐと美味しくなさそうに食べるのは癖だから、気にしなかった。
「光一君は、二月入って体重落ちちゃってるんですから、食べなきゃ駄目ですよ」
「……毎年、減るやん」
「今年こそは減らさないように、って思っている体重係の気持ちが分かりますか」
自分も肉を口に運びながら、なるべく厳しく言う。
何年経っても相変わらず自身に無頓着な人だった。
脂で光る唇を幼い仕草で噛み締める。
きら、と反射するそれは蠱惑的なのに、米花は惑わされる事もなくなってしまった。
大事にしたい気持ちと、可愛がりたい気持ち。
尊敬する心を上回った感情は、真っ直ぐ光一へ注がれていた。
「これから一キロだって減らしたくないんです、俺は」
「……あんま大事にしてくれんでええよ」
「貴方を大事にしないで、誰を大事にしろって言うんですか。座長がいなきゃ公演は続けられないんですよ」
「はぁい」
大人しくなった光一に満足して視線を自分の右隣へずらせば、箸を置いた屋良が目に入る。
こいつも食べなくなった。
運動量がいつもと違うから食べられなくなるのも分からなくはないが、それでは体力が持たない。
焼けたタン塩にレモンを掛けると、二、三枚皿に載せた。
「ヨネ~……ホントにもう良いって」
「食いなさい」
「お前、段々母ちゃんみたいになって来てる」
「母ちゃんでも何でも良いよ。屋良が食ってくれるんなら」
「食えねえんだって」
「お前な、唯でさえ細いんだからちゃんと食え。まだ折り返しなんだし」
「大丈夫だって」
「プロテインで補うな。ちゃんと食いもんで補給しろ」
「でもなあ、」
「屋良。光一君みたいになるぞ」
「……お前、それはないんちゃうの」
「うちのカンパニーに小食な男は一人で充分です。自覚はあるでしょ?」
「うぅ。俺だって、ええ大人やよ?」
「なら、ちゃんと食べて下さい。この間だって、立ちくらみ起こしてたくせに」
「あれは違うんやって!」
「言い訳は良いです。はい、食べて」
「……うー」
「ほら、屋良も。肉食えないんなら、ビビンバでも頼むか?」
「いや、無理」
「じゃあ、肉。ほら」
面倒くさくなって、皿に載せたタン塩を直接屋良の口へ運んだ。
雛鳥作戦が一番簡単だと言う事を周囲の同僚で実証している事の虚しさに、米花自身は気付いていない。
嫌がる口許へ運ぶのも楽しくなって来て、無理矢理三枚食べさせた。
ふう、と息を吐いて白米と肉を自分で食べる。
こんな役どころになる予定じゃなかったのにな。
自分で自分を一人前だなんて思っていない。
未完成のまま大人と呼ばれる年齢になって、今もまだ不安定な未来を見詰めていた。
それでも、気が付けば共に生きて来た人間が気になってつい手を伸ばしてしまう。
人の事なんて、見てる場合じゃねえのにな。
自嘲気味に笑ったのに、やっぱり気になってしまうのだ。
自分で「仲間」と決めた人間は、何があっても見ていてやりたかった。
己の力量とは関係ないところで、勝手に手が伸びる。
斜め前に座る町田にも声を掛けた。
「町田」
「ん?」
「肉ばっかじゃなくて、そっちのサラダも食え」
「焼き肉屋来てんのに、野菜食わなくても良いじゃん」
「あのなあ、医者に何て言われた?きちんとした生活をして徐々に体重も体力も戻して行きましょうって、言われただろ」
「……もう戻ってるよ」
「戻ってねえよ。体重減ったまんまだし、体力メチャメチャ落ちてる」
「光一君の前で言わなくても良いだろ!」
町田の隣に座る光一は、心配そうに黒目がちな瞳を向けていた。
言葉の足りない人だから、声に出して心配する事なんてしない。
年が明けて稽古に合流した時も、「頑張ろな」と言っただけだった。
コンサートで空けた穴はどうしたって取り返せないけれど、少しでも埋めたい一心で頑張る町田を知っている。
「町田……」
「いや!もう、全然、全っ然元気なんです!ヨネが心配性なだけで!!」
「うん。元気なのは知ってる。でも、」
言い淀んで少し瞳を潤ませた光一は、一瞬だけ目を伏せた。
その仕草に町田が見とれるのを、米花は面映い気持ちで見詰める。
彼の恋に近い羨望は、いつだって当たり前に光一へ向けられていた。
演技でもネタでもない愛情は、米花に居心地の悪い気持ちを与える。
恋人へ向ける愛よりも、余程純粋で真っ直ぐな感情だった。
町田にとって、本当に堂本光一と言う人間は大切な存在なのだろう。
「はい」
「……え?」
「食べ」
「え」
光一に見とれていた町田は、何が起きたのか分からずきょとんとした目を向ける。
米花も屋良も、言葉を紡げずに唯二人の光景を見詰めた。
「サラダ、食べた方がええんやろ?」
「は、はい……」
「なら、食べ」
「あ、あの……光一君?」
「何やのー。俺にあーんされるの嫌?これなら食うかな思ったんに。……やっぱキショいかー」
「ちょっ!そんな事ないです!嬉しいです!!え、でも……え。良いのかな。俺、こんな事してもらって平気?死なない?」
問われて、米花と屋良は顔を見合わせた。
次の瞬間、堪え切れずに大笑いする。
「光一君、グッジョブ!」
「町田ー。死ぬなよー!でも二度と訪れないチャンスかもしんねえから、しっかりやってもらえ」
「じゃ、じゃあ!お願いします!!」
「町田。目ぇつぶらんでもええんちゃうの」
「いや、でも!」
「ほら、あーん」
「っうわ!!」
「ひゃは。やから言ったやろ。目はつぶらんでええって」
サラダを摘んだ箸ではなく、顔を近付けた光一はいたずらっ子の表情で笑う。
あーあ、町田の寿命絶対縮んだな。
可哀相に、と米花は思って、でもこれでサラダが食べられるなら先の事はどうでも良いかと思う。
とりあえず、当面の目標は体力の回復なのだ。
サラダを食べさせる遊びに目覚めた光一は、それから暫くの間町田で遊んでいた。
絶対に味なんか分からず飲み込んでいる町田の瞳には涙が溜まっている。
嬉しさが高まり過ぎて恐慌状態に陥っていた。
その様子を眺めながら米花は、後もう少し頑張ってお母さん役に徹しようと心を決める。
自分の足許なんてどうでも良いと思えるような、大切な人達。
未来が怖いものであっても、こんなに大切な存在がいる自分は多分幸せだと思うから。
食事会を終えると、それぞれ迎えのタクシーを待つ為に外へ出る。
相変わらず光一の周りは事務所の人間に囲まれていて、外にいるのに完璧に守られていた。
その輪の中に入る事は出来ず、屋良と町田と三人で夜の風に吹かれる。
最初に来たタクシーに乗り込むのは決まって光一だった。
わずかの時間しか外にいられない事に、そっと胸を痛める。
時々、彼は囚われの姫君なのかも知れないと思う瞬間があった。
我ながら頭が悪いと思うけれど、普通の生活を知らない彼は社会的地位を手に入れている筈なのに、可哀相な子供に見える。
三人の会話の狭間に、ふと振り返った。
光一は見えない。
人間の壁に囲まれて、彼は何を思うのだろう。
あんな風に笑う人なのに。
店の中では感じない世界の差を思い知る。
白い息を吐き出しながら、タクシーを待った。
二、三分で最初の車が到着する。
今日は一人で帰るのだろうか。
マネージャーもさすがにタクシーへは乗り込まない筈だった。
囲まれながら歩いて来た光一は、相変わらず俯いている。
それが可哀相で、少し離れた場所から声を掛けた。
「お疲れ様です」
「……米花」
顔を上げた光一は、笑おうとして失敗する。
しょうがないな、と笑ってみせれば不意に彼が走り出した。
「え……」
「米花」
「光一君?」
駆け寄って来た光一に見詰められて戸惑う。
僅かに寄せた眉。
困ったようにも怒ったようにも見える表情だった。
「米花、」
「何なんですか?タクシー来てますよ?」
「あんな……」
「はい?」
「……米花」
ふわ、と冷えた両手で右手を包まれた。
大事なものに触れる仕草。
他人との接触を拒む彼がプライベートでこんな事をするのは珍しい。
「光一君?」
「……いつも、ありがと」
「……っ」
「手、こんなんなってもうたな。ごめん……いつも思ってる」
視線を落とした掌には、無惨につぶれたマメの痕があった。
何度練習しても、あいつのようには出来ない。
それが悔しくて悲しくて、俺には役不足だと言われているみたいだった。
光一を支える事は出来ないのだと。
「光一君……」
「ありがと。さっき、言ってくれたよな。俺がいなきゃ公演は続けられないって」
「はい」
「それは、お前も一緒やよ。ヨネがいなきゃ、俺、体調管理出来へんもん」
掌を撫でた後、光一はふわりと笑んだ。
整い過ぎた顔が感情を持って崩れる瞬間が好きだ。
同じ人間なのだと思うと、安心した。
「光一君!タクシー出しますよ!」
「はーい。じゃ、な。お疲れ様」
もう次の瞬間には自分の手を離れて駆け出してしまった。
呆然としたまま、掌を見詰める。
「ヨネ」
「……ああ」
「頑張ろうな」
「ああ」
身体を寄せて囁いた二人が、そっと肩を抱いた。
大切な存在、大切な仲間。
大切な、本当に大切な舞台だった。
二ヶ月間を無事に過ごす事。
その役目を自分が負えるのなら。
何て幸せなのだろうと、米花は笑った。
掌には、彼の信頼がある。
もしかしなくても、今年の米花さんは大変だろうなあと。
←back/top/next→
この世界に入って、もう随分と長い時間が経つ。
沢山の人と出会って、幾つもの恋をして、様々な交友関係を広げ、色々な別れがあった。
多分こんな仕事をしているから、他の仕事をしているよりは人に会う機会と言うのは多かったように思う。
そんな中で、ずっと離れずにいたのはたった一人だった。
恋人でも友人でも替えは利くけれど、相方の代わりは誰も出来ない。
堂本光一と言う人間だけが、自分の相方だった。
その不在を埋める存在はなくて、このまま一生彼の隣を独占するのだろう。
それを辛いと思う時期もあった。
離れたいと何度も願って、でも何も言わないまま傍にいてくれた存在にいつも救われて生きて来たのだ。
光一を愛しいと思う心。
誰よりも理解していたいと願う独占欲。
手放したくない、と言う思いだけが今の自分の中にある。
「なあ、光一」
「……ぁ」
「起きてます?」
「起きてる」
畳の上で大人しく胡坐をかいて雑誌を読んでいる光一は、いつ見ても綺麗だと思った。
こんなに長く一緒にいるのに、何度も美しいと感じる。
もう病気なのかも知れなかった。
恋をしている時に患うのが恋の病なら、治りそうもない相方へのこの病は何と表現すれば良いのだろう。
「なあ」
「何やねん」
「今、ええ人おらんの?」
「ええ人?」
「そ、結婚とか」
「けっ……!!」
「ああ、分かった。了解」
「なっ何を勝手に納得しとんねん!」
「いやあ、その反応はいないって事でしょ。良かったあ」
「何が良かったや」
「やって、先に嫁がれたくないもん」
「嫁ぐんやない!貰うの!!」
「似たようなもんやん」
笑いながら光一に近付く。
警戒したみたいに身体を丸めて後ずさった。
かわええなあ。
簡単に光一の足を掴んで引き寄せた。
抵抗を見せる身体は強い筈なのに、自分が触れるだけで簡単に駄目になってしまう。
あれかな。
最近彼女が出来ないのってこいつで満足しちゃってるからかな。
孤独に不自由がないのだ。
「こーおーちゃん」
「何やねん!足掴むな!引っ張るな!わー!」
「往生際悪いなあ」
あっと言う間に光一の身体を仰向けに倒して、その腰に馬乗りになる。
遊びの延長のスキンシップ。
まだ時間はあるし、端の方にいるスタイリストももうすぐいなくなるだろう。
暇潰し、と言うにはちょっと熱心な遊び。
「涙目になってるで、光ちゃん」
「お前が!いきなりこんなんするからやろ!」
「やって、遊びたくなってんもん」
「お前は子供か」
「うん。お子様やからねえ」
「そんな髭面じゃ説得力あらへん」
「んー、じゃあ正直に言うわ。光一さんを押し倒したくなったの」
「……まだ、子供の方がええ。普通、相方にそんな事せえへん」
うんざりしたように呟く光一へ笑って見せて、ゆっくりと上半身を屈ませる。
顔を近付ければ、逃げるみたいに目を瞑った。
それでも本当には逃げないのが、光一の自分へ向けられた愛情だと知っている。
触れるだけの幼いキスをすれば、馬乗りになった身体がびくりと揺れた。
かわええ。
これが、三十前の男の反応とは思えん。
「……も、良い?」
「嫌」
「つよ」
「光ちゃんやって、俺とキスすんの好きやろ?」
「う……うー。髪セットしてもらったのに、ぐしゃぐしゃになる」
「それなら、寝てなきゃええねんな」
「剛!それ屁理屈!」
「素直じゃない光一さんが悪いんですー」
光一の上から身体をどかして、今度は反対に自分の膝の上に抱き抱える。
大人しく腕の中に納まる彼の真意は、もう長い事分からなかった。
キスを始めたのなんて、昔の事過ぎて今更きっかけも思い出せない。
唯、恐らくは十年以上こんな過剰なスキンシップが続いていた。
何ものにも定義出来ない接触は「相方」の距離として消化されている。
自分達は、友人でも仲間でも恋人でもなかった。
「相方」として生きて行く為に必要な行為の全ては、身近に例がないから自分達でルールを作るしかないのだ。
「何なの、今日は。甘えたいん?」
「んー、友達が結婚してくん見てるとなあ。寂しくもなるんよ」
「やから、結婚って言うたんか」
自分達には、とても遠い世界の出来事のようだった。
「結婚」を決める年齢にはなって来ていると思う。
現に自分の周りでは結婚をする友人や子供の産まれた家庭があった。
それでも、遠い現実だ。
自分には彼女もいないし、年々結婚願望自体が減って来ていた。
「光ちゃんは結婚したい?」
「結婚言うてもなあ。何かあんま想像出来ん」
「彼女は?」
「おらん」
「そっか」
「嬉しそうな顔すんな、阿呆」
抱き締めた光一を至近距離で見詰めると、嫌そうに視線を逸らされる。
彼女がいない事を馬鹿にされたのだと思ったのだろう。
その感情の流れが可愛くて、触れるだけのキスを与えた。
「独り身でええやん」
「剛は?けっこ……っううん。何でもない!」
言い掛けて飲み込んだ言葉の先を知っている。
言えなかった理由も、ちゃんと分かっていた。
言葉を失った光一は、肩口に顔を埋めてぎゅっと抱き着いて来る。
「こぉちゃん。もう、時効やで」
「ええの。剛がいつ結婚してもええ。ちゃんと祝えるから」
「光一」
随分昔、まだ彼女がいた頃。
どうしてもこの世界に馴染めなくて荒んでいた時期だった。
自分と、そして彼女の事を心配して声を掛けた光一を酷くなじった事がある。
それ以来、光一は決して自分の恋愛に口を挟まなくなった。
「……ごめ」
「俺が結婚しようなんてちょっとでも思ったら、絶対に一番に報告するから」
「いらん」
「何で」
「……嫌、やから」
抱き着いた光一から零される言葉は、まるで子供だった。
自分達は相方としての距離をきっと間違えているから、何が正しいのか分からない。
嫌だと言う光一を愛しいと思う感情すら正しくないものだと思うのに。
「光一」
「いや」
「顔、上げて」
「いや」
「光ちゃん。怖い事、せえへんよ」
ゆっくりと離れた光一の瞳の焦点が合うのを待った。
彼が怖がらないようにゆっくりと笑ってみせる。
背中をしっかりと抱いて、もう一度馴染んだ唇を合わせた。
このキスは、決して深くならない。
唯優しさがあるばかりだった。
何度も啄ばめば、安心したように身体の力を抜く。
「お前は、怖いもんばっかやなあ」
「……つよし」
「悪い事じゃないよ。俺の前で素直なのはええ事や」
「俺、」
「うん、ええよ。お前は強くないんやから。……でも、俺とのキスは怖がらへんな」
「……何で?怖くないよ?」
「ふふ、こーちゃん素直やなあ。怖い事してみたくなるわ」
「?剛やったら、何も怖い事ない」
きょとんとした顔で零される言葉に、絆されそうになる。
うっかり手を出すってこんな感じなのかな。
まあ、光一の事は物凄く大事だから迂闊に過ちを犯す気など勿論ないのだけれど。
「ほんまに?俺やったら何でもええの?」
「うん。……え、違うん?俺おかしい?」
「おかしくないよ。嬉しいなあって思っただけ」
距離感を間違えたと自覚があるのは、自分だけらしい。
光一は、今でも真っ直ぐに自分を愛してくれていた。
何も迷わずに、怖がりな彼が手を伸ばして守ろうとする。
「光ちゃん」
「ん?」
「大好きやよ」
「うん」
綺麗に笑った光一の表情をきちんと見詰めて、また飽きる事のない口付けをした。
彼の存在は「相方」としてしか表現出来ないけど、もしかしたら「相方」が今の自分の全てなのかも知れないとひっそり思う。
乾いた唇が自分の口付けで潤むのを感じて、キスの合間に笑った。
人並みの幸福なんてもう得られないのかも知れないけれど、自分には光一と言う宝物がある。
それって、人並み以上に幸せなんじゃないかと彼を抱き締めながら感じた。
「相方」と言う関係の定義。
←back/top/next→
鍋をしよう、と酔狂な事を剛が言い出した。
何処かに食べに行くのかと思えば、そうではないらしい。
仕事の上がりは一緒だったのに一度別れた剛は、沢山の荷物を抱えて光一の部屋へ上がり込んで来た。
「何、その荷物……」
「どうせ光一ん家、鍋セットなんてないやろ」
「当たり前やん、一人なんやから。てゆーか、鍋食いに行こうとかそう言う話やないの?」
「阿呆か、家でのんびりほかほかやんのが鍋やっちゅーねん。店でやっても面白ないわ」
そんな相変わらず光一には良く分からない持論を展開して、剛は上着を脱ぐとすぐに台所に立った。
話の展開に付いて行けない光一は、呆然としてそれからほとんど無意識のままソファに放られたコートをハンガーに掛ける。
確かに、剛は最近自分を構うのが好きだった。
携帯の着信履歴に彼の名前が増えた事がその証拠だ。
どうやらそのブームは周期的に訪れるらしく、何年か前の時は「お前に似合うと思って」と言っては服を買って来る事があった。
今回は、多分「社交的な光一作り」と言ったところか。
家に押し掛けて来てご飯を食べる事もあるけれど、剛の友達と一緒に飲みに行かされたり、二人きりで東京を離れた所まで行ってみたり。
家に閉じこもりがちな自分を心配してくれているのは分かっている。
でも、三十年弱生きて来て今更早々変えられるものではなかった。
一つ息を吐き出して、テーブルの上を片付ける。
剛に構われるのが心地良い自分、と言うのが一番問題だろう。
「相方」なのか「恋人」なのか良く分からない距離に落ち着いて、もう何年も経つ。
友人より遠い距離にいる事もあれば、世の中の恋人の定義を超えた距離まで近付いて来る事もあった。
不思議だな、と台所に立つ背中を見ながら思う。
一緒にいる事がもう当たり前ではない場所まで来てしまったのに、自分では余り使う事のない場所で動いている剛の姿に安心した。
一人になる事はないのだと信じられる。
「光ちゃん?」
振り返りもせずに、でも確信を持って名前を呼ばれた。
こいつ、背中に目でもついてんのかなと思いながら野菜を切っている剛に近付く。
「ん?」
「もう出来るから、カセットコンロ用意してくれる?」
「分かった。どれ?」
「その青い紙袋ん中」
バッグの隣に置かれた袋を取って、テーブルの上に言われるまま用意した。
箸も取り皿も準備出来ているから、後は剛が鍋を持って来てくれればおしまいだ。
「あ」
「何、光一?」
「ビールで良い?」
「ええよ」
冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、取り皿の隣に置いた。
二人で食べる食事に慣れてしまったけれど、相変わらず冷蔵庫の中には飲み物位しか用意されていない。
空っぽの冷蔵庫を覗いては、剛に苦笑されるのにも慣れた。
「はい、出来たでー」
「お、あんがと。今日は何?」
「剛さん特製キムチ鍋ー」
湯気を立ち上らせた鍋は真っ赤になっている。
剛の料理が一般的に美味しいのかどうかは分からなかった。
母親の味よりもしかしたら慣れてしまった味付けは、今更何の違和感も持たない。
豪華なレストランに連れて行ってもらうよりも、剛のご飯が良いと言ったら付け上がるだろうから言わないけれど。
「よし、じゃあ食べよか」
「うん」
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせて一緒に食べ始めるのも、剛がつけてくれた癖だった。
一人で生きていたら身に付かなかった事が、自分と剛の間には沢山ある。
「ほら、皿貸してみ。よそったるわ」
「ん」
当たり前に伸ばされた手に取り皿を渡した。
これはお互いが持っている癖だと思う。
きちんと分担分けはされていて、剛が作った料理は剛が外で食べている時は光一が取り分ける事になっていた。
二人にしかないルールが、時々気分を楽にさせる。
愛されていると言う安心感だろうか。
「はい、今日は光一の嫌いなもん何も入ってないから、何でも食べれるで」
「うん、美味そう」
「やろ?絶対美味いで」
「いただきまーす」
「食べなさい食べなさい」
鷹揚に笑った剛に笑顔を返して、食べ始めた。
食卓の話題は、本当に他愛もない事ばかり。
仕事の話をしている時もあるし、互いには分からない趣味の話をする事もあった。
分かっていないのに、一生懸命話すし一生懸命聞いてしまうのは世界に互いしかいなかった頃の名残かも知れない。
剛自慢のキムチ鍋は、彼らしく余り辛くなくて鍋を埋め尽くす赤さとのギャップに笑ってしまった。
見た目の派手さと中身の穏やかさ。
剛みたいだな、と思って自分も大概病気だなと反省する。
何でもかんでも彼自身に結びつけてしまうのは悪い癖だった。
「光ちゃん、お腹一杯?」
「うん。もう充分。美味しかった」
「これからおじやするつもりなんやけど」
「えー無理。絶対入らん」
「えー。鍋の仕上げはおじやちゃうのー?」
「無理。絶対無理」
「……じゃあ、明日の朝」
「朝から米なんか食えるか」
「お前の小食は時々哀しくなるなあ」
落ち込んだ声で呟かれて焦るけれど、食べれない物は食べれないのだから仕方ない。
普段から考えれば良く食べているのは剛にも分かっているだろうに。
「結構食べたで」
「まあなあ、いつもよりはなあ」
「やろ?美味しかった。剛はええ旦那さんになるで」
「それは、現在の評価って事で良いんですかね?」
「え」
「俺はずっと、光ちゃんの旦那さんのつもりやけど?」
相変わらず平気な顔で恥ずかしい事を言われて、鍋の熱気とは別の熱さが頬を襲う。
居た堪れなくて、右手で目許を隠した。
「違うの?」
「……俺に答えを求めるな」
「他に誰に求めりゃ良いのよ」
「……うー」
「違う?」
「……そう、やけど」
「なら、ええやん。俺は、光ちゃんのええ旦那さん?」
「……うん」
頷く以外に方法はなくて、目を合わせないまま答えた。
自分の不用意な一言がこんな言葉を言わせているのだから、仕方ない。
苦手なのを分かっていてわざと言わせる剛は意地悪だった。
「光ちゃん」
「なに」
「大好き」
「……はいはい」
「つれないなあ」
「つれて堪るか」
精一杯の強がりは、椅子を立った剛の右手に遮られた。
伸ばされた指先が頭を撫でて、座ったままぎゅっと抱き締められる。
他人の体温は好きじゃなかった。
ずっと心地良いのは剛だけ。
「もっと一緒にいような」
「一緒にいるやん」
「光一さんは一人の時間も好きやから、僕なりに気を遣ってる訳ですよ」
「別に、」
一緒にいても良いと言い掛けて、言葉を飲んだ。
剛ばかりになるのは怖い気がする。
一人に戻った瞬間に立っていられなくなりそうで。
「ええのよ。光ちゃんとは別々の時間必要やと思うし。でも、一番に傍にいてな」
「ずっと、一番、やもん」
「そうでした」
腕の中なら少しだけ素直でいられる。
きっと、剛の素直な感情が流れ込んで来るせいだ。
未来を願わない自分が、彼との事でだけは強気になれる。
多分一生一緒にいるんだろうと朧げにでも考えられるのは、幸福な事だった。
「剛」
「なぁに?」
「美味しかった」
「ありがと」
「また作ってな」
「お安い御用です」
「明日、頑張れたらおじや食べる」
「はは、あんま無理せんでもええけど。期待してるわ」
「うん」
「じゃ、一緒に風呂入ろか?」
「うん」
抱き締めた剛の体温が心地良かったから、素直に頷いた。
身を委ねても怖くない。
一緒にいる事すら怖かった昔があった。
沢山苦しんで沢山の痛みを抱えて、今の二人がある。
願わくば、未来の時間もこんな風に優しいものでありますように。
祈る事すら禁じた過去を思い出しながら、剛の手に引かれて浴室へと入った。
其処にもきっと温かくて幸福な空間が用意されている。
今日は、良い夫婦の日と言う事で。
←back/top/next→
「つよ」
楽屋の隅からぽつりと呼んでみる。
小さな声で、しかも離れた距離から掛けた言葉に、何て事のない仕草で振り向くこの人がやっぱり好きだと思った。
「何や、眠くなってもうた?」
「ううん」
相変わらず、子供を相手にするような話し方で近付いて来る。
化粧台とロッカーの隙間に嵌まるように座っていた自分の前に屈んで、膝に掛けていたタオルケットを丁寧に直してくれた。
その指先の優しさにたまに泣きたくなる。
もう感情の零し方なんて忘れてしまったから、唇を噛む程度の僅かなものにしかならないけれど。
「つよし」
「ん?」
「つよ」
「何やの、光ちゃん。甘えん坊さん?」
「違う」
どんな風に取り繕ってもこの人の前では、自分の弱さや脆さが全部表れてしまうのを知っている。
けれど、いつまでたっても恥ずかしさは消えなかった。
それすら見通して、剛は笑う。
全部包み込むみたいな穏やかな表情で。
「僕にどうして欲しいの」
「……て」
「て?」
「ん」
そっと右手を差し出せば、迷わず受け止めて握り締めてくれる。
「手?」
「うん」
剛の繊細な指先が甲をなぞって、やがてしっかりと指の隙間を埋めるように絡められた。
一人でいる事には慣れた筈なのに、自分の体温だけで大丈夫だと思える時もあるのに、どうしてもこの人の温度が欲しくなる瞬間がある。
全てを諦める事を覚えた自分の中に残った我が儘な部分。
彼が許してくれるから、この時だけは子供のままでいられた。
「もうすぐ、冬やなあ」
指先を繋げて、剛が静かに呟く。
優しい音階ではなかった。
寂しさを残したその声音は、きっと自分を心配してくれているのだろう。
「そうやな。冬やね」
「……大丈夫か?」
「何が?」
「光一」
とぼけて見せれば厳しい表情を作る。
その真摯さに、愛されている事を知るのは狡い事だった。
「嘘、ごめん」
「お前なあ、」
「剛は、いてくれるやろ?」
「光一……」
「お前がいてくれるんなら、俺は何処でも平気や」
笑ったつもりの表情が、僅かに歪んでしまったのを剛に悟られた。
阿呆、と忌々しげに吐き出した後右手を引かれて、温かい腕の中に閉じ込められる。
剛の匂い。剛の体温。剛の抱く腕の強さ。
全部、飽きる程に記憶してしまった。
絶対に間違える事はない。
彼が傍にいるのなら、自分は生きる事を恐れないで済んだ。
生きて行ける、と何の躊躇もなく思う。
「お前だけは離さへん。そんなん、ずぅっと前から決めてるわ」
「うん。やから、大丈夫」
「光一」
こめかみに唇を押し当てて、そっと囁かれた。
間違った感情でも構わない。
誰に何を言われても良かった。
けれど、愛しているのだと。
この小さな空間だけが呼吸の出来る場所だった。
「お前が嫌がっても、お前がじいさんになっても。死ぬまで、」
一つ息を飲む剛の優しさが心地良い。
死の先なんて、とっくに知っているのに。
「死ぬまで、傍にいる。ずっと、永遠に愛してる」
「ありがと」
呼吸に紛れてしまうような弱い声を、剛は咎めない。
背中に回した腕に力を込めて縋れば、優しい呼吸が零れた。
溜息よりも温かい、けれど僅かに呆れを含んだ吐息。
「安心しぃ。俺はお前より先に死なん」
「うん」
「……あかんなあ」
「なに?」
「今此処で押し倒したなる」
「阿呆」
小さく小さく囁かれた言葉には、いつまでたっても慣れない。
耳が熱くなるのを感じて、どうにか取り繕おうと足掻いた。
どうせ全部ばれているのだけど。
「キンキさーん!スタンバイお願いしまーす!」
「あ、ほら」
扉の外から叫ばれた声に、慌てて身体を離した。
「つよ、仕事!」
「はいはい。ったく、先に甘えて来たんはどっちやっちゅーねん」
用意された靴を履きながら、後ろでぼやく剛の声を聞く。
それに小さく笑って、楽屋の扉を開けた。
「あれ、」
「おお、支度出来たか?」
扉の外には、何故かマネージャーが立っている。
先刻電話が鳴って出て行ったっきり帰って来なかったのに。
見上げれば、優しい瞳で見詰められた。
この人も大概自分に甘いと思う。
「どうだ?充電完了したか?」
「あ……」
「他の人が入れなくなるから、楽屋では程々にしなさいね」
「……」
「程々やったやん。ちゅーもしてへんで。なあ、光ちゃん?」
後から出て来た剛が、明るい声で割り込んで来る。
敵わないなあと思った。
必要な言葉は全部、剛が持っている。
「ちゅーなんかしてたら、俺が速攻で入って行くよ」
「やろ?ちゃんと考えてるもん」
「じゃあ、ちゃんとこの子にも考えさせるようにして下さい」
「ええの。俺が計っとれば」
二人の会話に入る事が出来ないまま、スタジオに向かう。
自分を間に挟んで好き勝手な事を言われているのに、腹が立つけど嫌じゃなかった。
甘やかされている事を知るのは、余り得意じゃないけれど。
「ほら、光ちゃん。行こか」
「あ、剛!こんなとこで手繋ぐな!」
先刻と同じように絡んだ指先の温かさに笑んで、後ろから聞こえるマネージャーの声には知らない振りをした。
どうせ自分達の関係なんて、他の人間には分からないのだから。
強過ぎるライトの当たる場所へ、剛と二人向かって行く。
怖くなかった。
この手があれば、自分は多分もう泣かなくて済む。
つよし、と小さく呼んだら簡単に振り返った。
言葉は渡さず笑顔だけを向けると、全てを理解したように頷いてくれる。
そっと離した指先には、剛の体温が残っていた。
大丈夫だと強く思う。
この気持ちが一つあれば、自分は生きていられた。
剛の隣に座って、一度目を閉じる。
生きて行く為に。
巡る季節を恐れない為の呪文。
えいえんに、あいしてる。
たまには優しいお話を。
←back/top/next→
つよし。
小さな声が聞こえる。
耳に届く事の無い、心に響く声だった。
つよし。
まただ。
背中でその声なき声を受け止めて、剛はひっそり笑った。
部屋には、自分の指先が奏でる弦の音と、魚達が生きる為の空気の弾ける音だけ。
静かな空間で、彼の声が響く。
つよし。
つよし。
つよし。
声に出すと言う事を、彼は結局覚えなかった。
それは弱さだと決め付けて、孤独のまま誰にも理解されない事を望んで生きている。
独りで良いのだと。
柔らかく零す彼の笑顔が優し過ぎて、泣きそうになった事を不意に思い出した。
可哀相な人だと思う。
彼の力になれれば良いけれど、残念ながら自分は役不足だった。
だから、せめて。
彼がこの世界から消えてしまわないように、傍にいてやりたい。
「光一」
「……ん?」
「こっちおいで」
ギターをケースに戻してから、ゆっくりと振り返る。
其処には膝を抱えて広いソファに小さく納まる相方の姿があった。
俺の家になんて寄り付きもしなかった癖に、最近こうして何をするでもなく来る事が多い。
原因は分かり過ぎる位に分かるから、敢えて何も言わなかった。
光一にだって呼吸をする場所が必要なのだから。
手招きすれば、嫌そうに眉を顰めて首を振る。
「いや」
「なんでやの」
「だって……」
「抱っこしたるよ」
両腕を広げて笑顔を作れば、更に身体を丸めて拒絶を示す。
猫は飼い主に懐かずに家に懐くと言うけれど、まさにその通りだなと頭の片隅で微かに考えた。
……いや、違うか。
こいつは飼い猫なんて可愛いもんじゃない。
「俺、子供やないで」
「子供みたいなもんやんか」
「何処が」
「僕にとっては、光ちゃんはいつまでたっても可愛い子ですよ」
「……むかつく」
言いながらも、諦めたように抱えた膝を離して、フローリングにぺたりと降りた。
四つん這いになって近付いて来る姿に苦笑を零す。
これが三十前の男だと言うのだから、世も末だった。
傍まで来た光一の頭を撫でてやると、腕を引いてギターの代わりに抱える。
彼の身体は冷え切っていて暖まる事がなかった。
体温を分け与えるように、ぎゅっと抱き締める。
他人を拒絶して生きて来た身体は、僅かに怯えて竦んだ。
「大丈夫やで」
「……なにが」
「全部やよ」
「なにそれ」
「ええんや。此処にいる間は」
「つよし……」
表情なんて見なくても分かるから、深く抱き込んだ。
視線を合わさなくなると途端に素直になる光一を知っている。
静かに息を吐き出して、体重が預けられた。
子供をあやすように、ゆっくりと薄い身体を揺らす。
揺りかごの原理。
やっと部屋に静寂が広がった。
光一の雄弁な声は聞こえない。
助けてとも苦しいとも言わない癖に、何度も何度も名前だけが綴られた。
気付かないと思っているのだから、彼も相当鈍い人間だ。
「なあ、こぉいち」
「んー」
「……一緒に、住むか?」
一瞬の空白。
空気が濃度を増して息苦しくなる。
僅かに揺らしている身体は何の反応も示さなかった。
「いや」
「何でよ」
「やって、魚嫌いやもん」
「可愛いのになあ」
「部屋散らかってるし」
「案外落ち着くで」
「寝汚いし」
「お前に言われたないわ」
「……いやや」
「何で」
「……そんなに甘やかさんで」
小さく零れ落ちた言葉を丁寧に受け止めて、冷たい身体をきつく抱いた。
結婚しても良いと思う位大切なのに、光一はその全てを拒絶する。
声なき声だけが、いつまでも愛を乞うていた。
「なら、もうちょい近くに越しといで」
「それは、考えとく」
「そうしなさい。こっから帰るんしんどいやろ」
よしよし、と頭を撫でて少しだけ身体を離した。
顔を覗き込めば、焦ったように視線を逸らす。
光一のコミュニケーション能力の低さは、才能の域だった。
「俺、もう帰る」
「泊まってけばええのに」
「阿呆か」
「大丈夫なん?」
「平気」
目を伏せたまま、腕を突っ撥ねられる。
離して、の合図だった。
素直に身体を解放して立ち上がらせた。
テーブルの上に放られた携帯と煙草と車のキーを渡してやって、玄関へと腕を引く。
光一は何も言わなかった。
だから自分も何も聞かない。
今更自分達の間で必要な言葉など存在しないのだから。
「明日は?」
「午後から。剛は?」
「阿呆な子やね。一緒やろ」
「……知ってんなら聞くなや」
玄関で靴を履いて振り返った光一の目線が下にある。
段差の分だけ低くなった彼は、必然的に上目遣いになった。
意識してではない仕草に愛しさを覚える。
空気のような存在だと思った時期もあるのに、今はこんなにも躊躇なく大切だと思えた。
「ありがとな。帰るわ」
「なあ、」
「今度は何」
「ヨリ、戻そか」
「……つよし」
呆然と立ち尽くした光一は、躱すべき言葉を見失っている。
何度も言おうと思って、彼の黒い瞳を見る度躊躇した。
二人で過ごした年月は長いのに、二人愛し合った時間はほんの僅かだ。
どうして、もっと優しく愛してやれなかったのだろう。
ふ、と光一が息を吐く。
繊細な仕草だった。
真っ直ぐ見上げた瞳に悲しみはあっても迷いは存在しない。
「あんな、剛」
「うん」
「俺、お前と付き合ってた時が一番苦しかった。もう、あんなしんどいのはこりごりや」
「光一……」
「ごめんな。俺は今でもお前が好きや。でも、一緒にはいられない。剛が一番分かってるやろ」
手を離したのは、自分だった。
愛しているのに、何度も傷付けて拒絶して絶望ばかりを与えて。
最低だったと思う。
あの頃は、光一の事が何も分からなくなった。
怖い、と初めて思ったのだ。
ずっと理解出来ていた筈の存在が、全く未知のものになってしまったと。
あんなに近くにいて、けれど何よりも遠ざけてしまった。
距離を置いてやっと、光一の事は手に取るように理解出来る。
何を考え何を望んで、何を恐れているのか。
理解出来る事が今の関係で良いと教えてくれていた。
彼と愛し合う事は出来ない。
「ホントは、お前が苦しくないように抱き締めてやりたい」
「今だって充分ぎゅってしてもらったで」
「何処にも寂しい事なんてないって、安心させてやりたいのにな。俺には役不足やわ」
「剛、平気やで。あん時より苦しい事なんてない。剛以外に俺を苦しめられる奴はおらん」
嘘だと分かっていて、光一の笑顔に気圧された。
何も言えない。
圧倒的な白で全てを覆い隠して、彼は綺麗に笑んだ。
「光一」
「大丈夫や、大丈夫」
噛み締めるように呟いて、子供の仕草で腕を伸ばした。
段差のせいで腰に抱き着いた光一の身体は、やっぱり冷たい。
彼の愛情を零さないようにとしっかり抱き締めた。
薄い背中。
此処にどれだけのものを背負っているのか。
「生きていてくれたら、ええ。それだけで良い」
「こうい……」
「死んだらあかんよ。死んだら、其処で全部終わってまう」
二人で苦しんだ時期、何度も光一が囁いてくれた言葉だ。
「愛している」の代わりに、彼は「生きろ」と繰り返した。
俺の隣で生きろ、と。
あの頃は、強い言葉だと思っていたのに。
久しぶりに聞いたそれは、苦痛と臆病の間で震えていた。
彼は孤独にしか生きられないけれど、でも傍に誰かが必要だったのだ。
一緒に生きられなくても心を分かち合わなくても、手を伸ばせる場所。
光一の弱さを知っていたのに、それにすら目を向けられなかった幼い自分はもういない。
生きる事。
必要なのは、唯それだけ。
「……お前を残して死ねる訳ないやろ」
「最期まで面倒看てくれるんか」
「当たり前やん」
くぐもった声で小さく笑う。
自嘲気味な響きだった。
冷え切った身体が哀しい。
「きっと俺、独りぼっちやからなあ。剛に遺言書いとこかな」
「……長生き、しろや」
「そんなん、約束出来るかい」
出来ない事は約束しない。
光一の誠実で不器用な生き方が、こんな時ばかり胸に迫った。
何処にいても、生きてさえいれば。
彼の願いはささやかで、自身を省みなさ過ぎる。
大切な人の事ばかり願って、独りきりの自分の寂しさを見ないようにしてしまった。
「じゃ、ホンマに帰るわ。朝になってまう」
「そうやな。俺も光ちゃん帰ったら寝よ」
「うん。おやすみ」
「事故んなや」
「気を付けるー」
言いながら扉を開けると、あっと言う間に出て行った。
彼はこの部屋ですら涙を見せない。
ロックを掛けてリビングに戻れば、水槽の音だけが広がっていた。
もう一度ギターを抱えて適当にメロディーを奏でる。
つよし。
微かに残った彼の声を拾い上げた。
もしかしたら、今もまだ呼ばれているのかも知れない。
追い掛けてその背中を抱いてやれれば良かったのに。
戻れない場所まで来てしまった。
自分では彼を支えられない。
つよし。つよし。
何度も呼ばれているのに。
声は、聞こえるのに。
つよし。
まるで、手負いの野生の獣だった。
怪我をしているのは分かるのに、触れてしまえば野生に戻す事は叶わない。
何も出来ずに唯見守るだけ。
本当は手を伸ばして傷に触れて、苦しかったねと言ってやりたい。
森になんて返さなくても、一生自分の傍にいれば良いと。
そんな覚悟を持てないまま、此処まで来てしまった。
優しくする事も背中を押す事も出来ない。
彼の孤独は深くなって行くばかりだった。
凛と伸びた背中が美しいのは孤高だからだ。
つよし。
その心は心細く名前を呼んでいるのに。
部屋の中に残された乞う声に、剛は一人涙を零す。
出来る事なら、彼の哀しみを全て背負ってやりたかった。
愛してる。
生きていて欲しいと痛切に願った。
Irastorated by yuchi sama
孤高の人。
←back/top/next→