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寒いと思う前に、手を温めてくれる。
眠いと思う前に、毛布で包んでくれる。
寂しいと思う前に、キスをくれる。
欲しいと思う前に、全部くれる。
剛は自分にとってそう言う存在だった。
己の欲求を全て理解してくれる人。渇える前に潤してくれる彼に、聞いた事がある。
どぉして分かるの。どぉして、そんなに優しいん。
答えは返って来なかった。唯優しい笑みを向けて、頭を撫でられた。それが何を意味するのか、疎い自分にはきっと一生分からない。
剛がどうして此処に居てくれるのか。
未熟な自分を優しく守ってくれるのか。
彼は自分の事で精一杯な時でも、大丈夫かと聞いて来る。
ほんまはお前の方がしんどいのに、それでも必ず。どんな時でも。
俺がしんどいと、疲れたと思う前に。
癒すよりも治すよりもまず、寄り添ってくれる恋人を。
俺も大事に守れたら良いと思う。
鳥籠に無理矢理二人閉じ込められて、つがいになるのは当たり前だと思う。
エデンに住んだ二人だけの住人、アダムとイヴの様に。
お互いしかその瞳に映らないのなら、お互いが至上の存在になるのは当然ではないか。
「光一は、他の奴と付き合わんの」
シチュエーションを照らし合わせれば、恐ろしく不自然な台詞は余りにも自然に剛の口から零れた。
ゆっくり抱き合った後、力の入らない光一の身体を洗っている浴室に、剛の声が反響する。
為すがままになっていた恋人の反応は遅かった。
きょとんと見開かれた瞳と、言葉を反芻して顰められた眉がアンバランスだ。
「……付き合うって?」
軽く流すなり怒るなりしてみせれば良いものをまともに取り合ってくれるから、こちらもちゃんと答えなくてはならない。
あっさり流してしまえば良い話題だったのに。
こーゆーんは、この人の悪いとこやな。
「やぁから、男とか。俺しか知らんやろ?」
「あ、当たり前やろ!!」
真っ赤になって怒る姿を見て、今の聞き方はまずかったなあとほんの一瞬反省してみる。
「まあそんなんは、俺が一番良く知ってるけども。お前ホモちゃうもんなあ」
「何を今更。俺は元々常識人ですー。お前やなかったらあり得へんわ、ボケ」
あっさりと惚気られて、今度は剛が赤面した。二人して何をやっているのやら。
気を逸らす為に、シャワーを勢い良く出して泡を落とす。
自分はどちらかと言うと可愛ければ良いタイプなので、女か男かに付いては余りこだわりがなかった。
そう言う嗜好を見て、この人は節操なしなんて言うのだろうけど。身持ちは固い方だと思う。
「うん、光ちゃんがつよちゃんの事深ーく愛してくれてんのは分かってんのやけどな。最初の人が最後の人ってのはどうなんかなあって思うのよ」
「なん、それ? 意味わかんねー」
泡を流されてさっぱりした光一は、ちゃんと話をするつもりらしい。
一緒に浴槽に入っても文句を言わないのを良い事に、向き合って膝に抱えてみた。
「んー、やからな。俺しか知らんって言うんは、俺が良いんじゃなくて、俺しかいなかったから結果そうなったんかなあって思うねん。俺が手ぇ出さんかったら絶対こうはなってなかったやろ?」
光一も十代の頃幾つかの恋をして来た。
間近で見ていた自分にはその幼い真剣さがちゃんと伝わっていて。だから愛する事の出来る人だと言う事は、充分分かっている。
恋の少ない彼の環境は、どんどんプライベートを削除して行ったから。他人と知り合って深い仲になれる機会はあっという間になくなってしまった。
言ってみれば剛は、最後に残った他人なのだ。
だから仕方なく選ばれたのだ、なんて思っていない。この光一が男の自分と付き合うのは生半可な覚悟ではない筈だから。
彼の愛を疑っている訳じゃなかった。
唯、もしもの事を考えてしまう。
もし、光一の周りにもっと沢山人が居たら。
もっともっと選択肢があったら。
自分は選ばれていないのではないか、と。
仮定の想像は、剛を酷く憂鬱にさせる。
「……俺は剛が良かったんやで?」
「ぉん、知ってる。でも、もっと色々知ってた方がええんやないかなあって」
「知るのってそんなに大事な事? 一番大切なものちゃんと分かってんのに、知る事は必要な事なん?」
「光ちゃん……」
「俺は剛がええんよ? もし、もしな。お前が俺の隣にいなくて沢山の人の中に埋もれてても、全然違う国の人でも。俺はきっと、お前見付けるよ」
もし君が、砂の一粒であっても必ず探し出す。
そして、この掌にきっと捕まえる。
愛の囁きは剛の専売特許なのに、臆面なく光一は話す。
真っ直ぐな言葉は彼の真実で。
「参ったわ、男前やね」
「ふふ。今頃気付いたん?」
本当は、沢山の人を知ってそれでも剛が良いんだと言って欲しかった。最初から選ばれるのではなく、最後に選び取られる物でありたいと。
そんな願いを簡単に打ち砕いて、優しい笑みを光一は向ける。
鳥籠の孤独を知っている癖に、二人きりの寂しさを知り尽くしているのに。
此処に、戻って来るのだと。
錯覚ではなく他人に与えられた感情でもなく、自身の足で彼は立っている。
「俺悪いけど、お前以外無理やから。こんなん恥ずかしくて一からなんてようせんわ」
首に腕を絡めて、キスをねだられる。
その仕草も全部、剛が教えた物だ。
奪い穢し、そして最後に与えた物は多分碌でもないものだけど。
彼が迷いなく此処にいてくれるのなら、自分はきっと狭い鳥籠を憎まずに済む。
幼い光一の心にあった俺への感情は、間違いなく家族へのそれと同類の物で。優しく生温い彼の愛情を穢したのは、自分だった。
泣いても喚いても俺は手を緩めなかった。
いっそ壊れてしまえば良いと思いながら、頬に残る涙を拭う頃気付けば繋がっていたのだ。
とろりと潤む光一の黒い瞳、噛み締めた唇の桃色、肌の抜ける様な白。
其処に散った鬱血の紅、その身を穢す乳白色と太腿を辿る赤い血液。
全てが今も鮮明に残っている。彼にとっては苦しいだけのその夜から、俺達の関係が全て壊れた。
口を開かない光一、無言で手を伸ばす自分と。
何処にも逃げられない焦燥感だけが其処に在る。愛はなかった。
愛は、何処にもなかったのに。
光一の優しさを躙って、その無垢な瞳を濁らせた。
罪は生涯重く圧し掛かるだろう。
それでも、どうしても手に入れたかった物は一体何なのか。
分からないまま、今夜も俺は光一を組み敷くのだろう。
光一が泣いた。
俺達にはなにもない、と泣いた。
分かっていた事なのに、苦しいなんて言ってはいけないとずっと戒めて来た。
それでも零れてしまった感情は、彼の本心だ。
ずっと、ずっと苦しんで来た恋人。
自分の思いの真実に気付いていて、けれどその正当性を見出せなくて。
俺は、お前がいればええよ。
何も考えんとそのまんまおってくれたらええのに。
そう言い続けていた筈だった。
何も生まなくても何も残さなくても、光一が一生俺の隣にいてくれるのなら、何もいらないと。
それなのに、彼は泣いている。
俺に何も渡せない事を悔やんでいる。
もう、ずっと沢山の物をもらっているよ。
お前の笑顔を、お前の温もりを、お前の眼差しを。全部。
光一を形成する全ての物がこの手にある。
こんな幸せな事はない。
その髪の一本まで、俺に差し出してくれているのに。
これ以上望んだら罰が当たるよ。
「こぉいち。顔、上げて」
泣き止まない彼の顎に手を添えて、視線を合わせる。
静かに涙を流し続ける透明な瞳を覗き込んだ。
いつだってその目の奥に偽りはない。
「俺は、何もいらんよ」
「……俺は、あげたい。つよしに、あげたい」
分かち合うよりも与える事を望む人だった。
その自己犠牲に近い程の愛情を、どうやって受け止めたら良いのか。
こんなにも愛されている事実をどうやったら伝えられるのか。
「何も、いらんよ。こぉちゃんがずっとおってくれるんやろ?」
優しく頭を撫でると、その首が小さく横に振られた。
「ずっと、は、いられん」
「……どーゆー事や」
剛の声が低く潜められる。
その身体を包み込んで、離れられない様にした。
「死んでも、その先も、ずっとおりたいけど。そんなん、出来んやん」
いつ離れてしまうか分からない。
そんな幼い不安を滲ませて、光一は泣いた。
どんな時も気高く生き続けている彼の中に住む子供の影。
不安で不安で仕方ないその子供は、時々手を伸ばして必死に縋り付いて来る。
「俺が離さへんから、大丈夫やよ」
その言葉に嘘はない。
いつか離れてしまう時が来たとしても。この気持ちは本物だった。
一人が怖いと泣くのなら、剛が欲しいと駄々を捏ねるのなら。
彼の欲するままに、望みを叶えよう。
「つよし」
「うん?」
「……俺は、何で剛なんやろな」
寂しく呟いた言葉は、計り知れない孤独を抱えている。
剛以外要らない、とその心は今も高い壁で守られていた。
光一に良い事ではないと分かっているのに、いつまでもそのままで居て欲しいと願う狡い自分も同じ場所で存在している。
「俺も光一だからちゃうの?」
「お前、趣味わるいなあ」
泣きながら笑おうとして失敗した。
俺が剛を選んでも、剛が俺を選びさえしなければ。もっと違った未来が開けていた筈なのに。
何もない、訳じゃない。きっと其処にはまだ見ぬ後悔が眠っている。
「光ちゃんは、謙遜がお上手やね。俺みたいなんを果報者って言うんやで」
「お前、嘘つきや」
「嘘ちゃうよ。俺達には何もない訳やない。此処には大事なもんがあるよ」
手を取って、自分の胸に導いた。
何度も止まりそうになったこの心臓。今も動いているのは、きっと光一が飽きずに此処にいたからだ。
「もう逃げたりせえへんから。ちゃんとお前と生きるから。やから、そんな悲しい事言うたらあかん」
離れない。もう、離さない。
お前は泣かなくて良いんだよ。
全部くれると言うのなら、その命まで俺に託して欲しい。全部、全部。
掌中に。
「俺、ずっと剛ばっかやな」
「ええやん、それ。幸せやろ」
幸福に怯えて、光一は困った顔をする。
涙の跡が残る頬に口付けて、額同士を合わせた。傷を舐め合う様に、二人。生きて行くのだと思う。
それが悲しい事だなんて、絶対に言わせない。
俺達は補い合いながら歩いて行く。
もう立てない。もう歩けない。
もう、お前とは進めない。
明け方近くにベッドに潜り込んで来た冷たい身体を邪険にする訳にも行かず、かと言って抱き締める事も出来ずに剛は寝た振りを決め込んだ。
どうせ彼は気付かない。
ぼろぼろになって生きているのがやっとの状態で帰って来たのだろうから。
どうしてこんなに仕事にのめり込めるのかが分からなかった。
世の中にはもっと楽しい事だってあるのに。
光一は、いつも前ばかり見て先に進む事ばかり考えている。
そんな相方に追いつけなくなって走るのをやめたのは、一体いつの事だろうか。
振り返って待っていてくれる光一を「要らない」と言った。
悲しそうな顔をするだけで何も言わなかった光一は、気付けばまた同じ様に走り始めて。
今ではもう、その背中すら見えなくなっていた。
限界を超えた所で生き続ける彼は、気高く孤高で手が伸ばせない。
小さな頃、確かにその手を握り締めていた筈なのに。
もう、触れる事さえ許されない。弱いのは自分だ。そんな事、充分に分かっている。
冷えた身体が少し熱を取り戻して来た頃、微かな吐息が規則正しいものに変わった。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、思っていたよりも至近距離に彼の顔がある。
長い前髪が影を作っていて、表情が見えなかった。
肉感的な唇が小さな呼吸を紡いでいる。
一人で生きている光一は、酸素や水すら必要としていない様に見えた。
世界中のどんな要素からも自立して生きたいと願っている様な。
誰も辿り着けない場所に光一の精神は在って、けれどそんな生き方をする癖に時々縋る様な視線を向ける彼が嫌いだった。
一人で生きられるのに。
俺がいなくても、一人で進んで行く癖に。
歪んだ精神を抱えているのは俺だけれど、こんな精神構造に追い込んだのは間違いなく光一だ。
本当は、必要な物なんて全部お互いの手の裡にあった。
けれど光一は背を向けて突っ撥ねるし、俺はもう要らないと蹲ってしまった。
だからいつも、俺達は堂々巡り。
酸素も水も要らないと言ってしまえるのは、本当に必要な物を知っているからだ。
生きて行く為の術をとっくに見出してしまったから。
けれど、一緒に歩けない俺達は手の裡を晒す訳には行かない。
解いた指先を修復するのは不可能だった。
だから光一は、俺のベッドで眠る。
身体に必要な物を補う為に。
孤高の人の唯一の拠り所は、今も昔も此処だけだった。
俺が走るのをやめてしまっても。
いつか、お前も走れなくなる時が来る。
狡い俺はお前に追いつく努力をせずに、その時が来るのを待っていた。
お前の身体が堕ちて来る日をずっと、待っているんや。
やつれた身体をシーツで包み、抱き締める事は出来ないまま寄り添った。
いつか来る夜明けまで、二人は熱を分け合って眠り続ける。