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光一が感情的な涙を流す事はほとんどない。
それが彼の生き方であって、自身を保つ為の楯だった。
強い人ではない。
弱みを見せない事で、この世界を生き抜いているだけだった。
「……光一?」
「あ……ごめ、起きてもうた?」
「何、お前」
同じベッドで眠れる夜は、いつでも優しいものだ。
身体に掛かる負担を最小限にして抱き合った後、手を繋いで眠った。
穏やかな顔で眠っていたのに。
上半身を起こした光一は、涙を零している。
「ああ、何やろ。分からん」
「分からん、てお前。ものごっつ泣いてるやないか」
「うん。目が温い思て目覚めたら、こうなってた」
「怖い夢でも見たんか?」
「阿呆か。子供ちゃうわ」
慌てて起き上がって、光一の頬を拭った。
確かに怯えた顔も悲しい顔もしていない。
コンタクトを外し忘れたのかとも思ったけど、風呂に入る前に外させた。
訳が分からないと言う顔で、顎を伝う滴にどうする事も出来ないでいる。
泣く事に慣れていない人だった。
心が痛んでいないのなら良いけれど、やっぱり不安になってそっと抱き締める。
「何?つよ。平気やで」
「俺が平気やないの」
「もぉ、相変わらず心配性やなあ」
困ったように笑った気配があって、同じように抱き返された。
ぎゅっと背中を掴む手が幼い。
自分の前で大人になる必要はないのだと何度も教えて来た。
繕わないで全部見せて。
甘えて。
懐いて。
俺以外の奴のとこなんか行かないで。
我儘な言い分だった。
こうして甘える光一と、その傲慢を通す自分と果たしてどちらが大人だったのか。
問い詰める人間は誰もいないから構わないけれど。
「多分なあ、目渇いてたんちゃうか?」
「寝てんのに?」
「半目剥いてたとか」
「嫌やわ、そんな光ちゃん。てゆーか、見とったけど相変わらず天使見たいな寝顔やったで」
「……お前、絶対阿呆や。気持ち悪いやっちゃなあ」
「何とでも言って下さい」
温かい身体を腕の中に納めると安心する。
こいつは俺のもんや、と公言出来る訳ではなかった。
いつでも自分達は互いの愛情だけで生きている。
誰に認められる事もなく、信じられる約束も持たずに。
だから、いつでも愛情が問われる。
それだけが、信じるものだった。
「ホンマに怖い夢見たんちゃうの?」
「……夢なんて、覚えてへんよ」
微妙なニュアンスと躊躇った息遣いに、違和感を覚えた。
彼は嘘を吐くのが苦手だ。
言葉で誤摩化す位なら、無言を貫く。
汚濁に塗れた生活の中で、内面の潔癖を守る為に身に着けた手段だった。
「平気やから、剛もう寝ぇ。お前、明日早いやろ」
「あんな、光一」
はあ、とわざとらしく溜め息を吐いて、少しだけ身体を離す。
この恋人は相変わらずと言うか、何と言うか。
涙は留まる事を知らずに、今もその綺麗な双眸から零れて行く。
「ん?」
「自分の恋人が夜中に泣いてんのに、平気で寝れる男が何処におるっちゅーねん」
「別に、」
「光一。どんな夢見たん?」
「……覚えてへん」
「光ちゃん」
「知らんもん」
頬を膨らませる様は、まるで子供だ。
強情なのは知っているが、こんなに素直に拗ねる事はないので何だか嬉しくなった。
目が覚めてそんなに時間が経ってないから、もしかしたら寝惚けているのかも知れない。
柔らかな頬に口付けて、体内にある何かを追い出そうとした。
お前が抱えてるのは、何?
お前のもんは、俺のもんや。
一緒に生きて行く以上、お前だけに抱えさせるものは何もない。
「……ホンマに覚えてへんの」
「少しはあるやろ?目、覚ました時どんなやったとか」
「ええよ、涙なんてその内止まるわ。俺がまだ枯れてへんって事が証明された訳やしな」
「光一」
「……剛は過保護や」
「ええやん。何があかんの?」
「俺が駄目んなる」
「駄目になったらええ。俺が嫌や言うたか?」
「俺があかんの」
「こんな泣いてて言う台詞か」
「っ……ちょ!んん!」
強引に口付けて、吐息を奪った。
ショック療法、と言う程の考えがあった訳ではない。
唯、彼の内面に枯渇する何かがあるのだとしたら、それを潤わせるのは自分の役目と言うだけだ。
深いキスは、彼を蕩けさせる。
全身の力が抜けて、彼の身体が支えを失った。
しっかりと抱き留めて唇を離すと、最後に額に口付ける。
「な?泣いてる理由」
「っ、阿呆や……はぁっ。寝起きの癖に……っ何でこんな元気やねん」
「光一さん相手やったら、二十四時間稼働ですよ」
「そんな機能いらん」
「で、何やの」
「……覚えてないんやって」
「此処にあるもんだけで良いから」
心臓に掌を当てて、じっと見詰めた。
この目に弱い事を充分自分は知っている。
「……空っぽ、やった」
「空?」
「ん。なぁんにもないの。俺だけいるの」
「うん」
「寂しくなかった。怖くなかった。でも、嫌やった」
「そか」
恐怖や孤独と言う感情を抱えている癖に、光一は自身の内面を知ろうとしない。
強情に平気だと言い張る彼の強さは好きだけれど。
零れる涙が、完全にそれを裏切っていた。
要するに、感情の許容量オーバーと言う事だ。
「つよし、いなくて。真っ暗やった。何処、行ったらええの?剛いないのに、行く場所なんか分からん」
「うん。そうやな」
「手」
「手?」
「欲しい。俺を置いてくなや」
胸に額を押し当てて言う光一の声音に、抑え切れない悲しみを知る。
四六時中一緒にいられる訳ではなかった。
子供のままではいられないと知り、納得もしているのに感情が追い付いていない。
光一は、出会った頃の臆病な少年を今も胸の裡に住まわせていた。
迷子の子供。
俺の手しか信じない臆病な子供。
今も彷徨い続ける少年を捕まえるべく、彼の冷たい手を握った。
「この手、欲しかったん」
「夢ん中は見付からなかった?」
「うん。嫌やの。此処におって」
「いつでも、おるやんか。お前んとこ以外におるとこなんかない」
「ん。分かってるつもりやねん」
噛み締める言葉は、恐らく自身に向かって言っている。
怖がりで気丈で、愚かな子供。
俺の腕の中に素直に落ち着いてしまえば良い。
「大丈夫や。俺は此処にいる。お前も此処にいる。何にも不安はないよ」
「うん。知ってる」
「泣かんでええの。俺の名前呼べばええ」
「つよし」
「はい」
「つよし」
「はい」
「つよ」
「良く出来ました。泣き止ませてあげる」
言って、指先を絡めたままその薄い身体を押し倒した。
見上げる瞳は痛々しい程に赤い。
寂しいと死んじゃうんやっけな。
白くてふわふわの毛並みを思い出して、小さく笑った。
湿った頬にそっと唇を落とす。
「おまじない、な」
今度は首筋にキスをして、丁寧に身体の線を辿って行った。
光一の恐怖が消えるまで。
泣かせる為ではなく、泣き止ませる為の行為。
柔らかな口付けを繰り返して、身体の力を抜かせた。
真っ赤な瞳がとろんとする頃、もう一度耳元で囁く。
「何処にも行かん。ええ夢見ような」
「……ん」
「おやすみ」
眠りに落ちて行く瞬間を見届けて、それから暫くもキスを続けた。
溢れ出た孤独が癒えれば良い。
痛みを無視する光一の身体が傷付かないように。
明日の朝も気丈に笑えるように。
彼が悲しむ瞬間には必ず傍にいたいと願った。
いや、本気で泣かない子だろうと思ってますけどね。
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ソファの上に二人で座って、そっと剛が指先を取る。
テーピングの巻かれた不格好な親指を撫でて、小さな溜め息を零した。
「もぉ、痛ない?」
「うん、平気やよ。爪ないと気持ち悪いからそのまんまにしてるけど。大分生えて来たし。撮影ん人は困ってるかも知れないけどなあ」
舞台が終わって、そのままドラマの撮影に入った光一は、申し訳なさそうに笑った。
ステージは生き物だ、と彼は恐れずに言う。
その言葉に全てのアクシデントを飲み込ませて、平気な顔で立ち続ける強い人だった。
其処で起こる全ての事に一つ一つ対処して、共演者のフォローまでこなす。
気が付けば、光一は手の届かない場所に立っていた。
舞台に立ち始めた頃は、一緒にいられなくても俺が守らなければいけないのだと強く思っていたのに。
共演者の先輩に頭を下げて、頻繁に楽屋に出入りをする。
それでも不安な瞳を隠そうともしない恋人に、秘密の魔法を掛けた。
唇でも手の甲でも、尖った肩の先でも旋毛でも何処でも構わない。
小さなキスを落とす。
触れる体温でゆっくり落ち着きを取り戻して行く光一は綺麗だった。
あの、不安の塊の子供はもういない。
今は唯強く前を向いて、カンパニー全体を引っ張っていた。
彼らの力を借りて。
「舞台終わってもうたんやね」
「多分来年もあるで」
「ホンマに凄いやっちゃなあ」
「俺は凄ないよ。皆が頑張ってるから、俺も頑張らせてもらってるだけや」
変わらない謙虚さは、彼の強みだと思う。
すぐ傍にいる人間に深く愛される理由は、この素直さにあった。
遠くにいては頑なさやあまのじゃくばかりが目につく人だけど、彼の核心に触れられた人間は間違いなくその魂ごと愛しいと思う。
自分だけの宝物は、もう何処にもなかった。
「俺も、MAになりたかったなあ」
「……何、言うてんの?」
分からない、とはっきり顔に書いて首を傾げる。
幼い仕草に笑って、テーピングの上から口付けた。
舞台の上では、自分は手も足も出せない。
「ちょぉ羨ましくなんねん。あいつら見てると。お前、あいつらにぽーんと自分の命預けてるやろ?」
「ぽーんって、何やそれ。まあ、そうやけど。あいつらやないと出来ん事一杯あるもん」
思い出す表情で、そっと目を細める。
舞台の上のきらきらした煌めきが、その瞳の中にあった。
俺が手に入れられないもの。
「ええな、って思う。まあ、ミュージカルなんて出来んけどなあ」
今はもう痛みを伴わない言葉は、二人の間にぽとりと落ちた。
お互いの場所には踏み込まない。
最初の頃は随分と痛んだ心臓も、今では少しの音も立てなかった。
それでも、と思う。
MAになりたかった。
秋山のような力技も米花のような正確性も屋良の複雑な振り付けも町田の赤裸々な愛情も、どれも自分には持ち得ないものだ。
光一が自分を一番に思ってくれている事も知っていた。
でも、あの舞台で見せる信頼関係に打ちのめされるのも事実だ。
「阿呆やなあ。MAなんかなったら、俺にこき使われて大変やで」
「そうやなー。光ちゃんは注文多そうやもんなあ」
「うん。それにあいつらはきっちり応えてくれるから。つい調子に乗って負担増やしてまう。……お前に負担は掛けたくないよ」
光一の優しい声。
それが駄目なのだと、彼は気付かない。優しいから。
過度の期待も不要な負い目も抱かせたくないと、彼は気を遣い過ぎる。
原因を作ったのは自分だから、何も言えないけれど。
「負担、掛けられへんもんな」
「そぉゆう意味ちゃうわ。てゆーか、剛は根本的に間違え過ぎ」
「何が?」
「お前、人ん事鈍感鈍感言う癖に、自分やって充分鈍感やわ!」
「少なくとも光一よりは敏感に出来てるで」
「じゃあ気付け!」
小さく叫んで、勢い良く押し倒された。
恋人同士の色っぽいものなんか欠片もなくて、言うなれば大型犬に懐かれたような。
見下ろす光一の瞳は悲しい位に真剣だった。
可哀相になって、その頬を指先で撫でる。
「何に気付いたらええの?」
「……あいつらには、そりゃ命預けてるよ。俺の、全部。あいつらじゃなきゃ嫌やし、それは他の皆も分かってる」
「うん」
「でもな、剛にはずっと昔から。こやって付き合う前から、命なんてあげてるの。丸ごと全部」
「な、に……」
「分からん?俺の命は剛のもんやよ。剛にあげた」
それは、数少ない光一からの愛の言葉だった。
照れたように背けられた頬が淡く染まる。
俺の、もの?
そんなに俺を甘やかしてどうしたいんだろう。
圧し掛かる身体は、随分と昔に手に入れた。
ずっと大事にして来たつもりだし、これからも出来れば一生大切にして行きたい。
その感情を光一も持っていてくれた?
預けるのではなく、躊躇なく差し出す方法で愛を示す彼は、自分より余程愛情が深い。
「やから、MAにつまんない嫉妬すんなや。お前が嫉妬してるなんて分かったら、町田なんかめちゃめちゃ怒るで、きっと」
「……そうやな、贅沢過ぎるな」
「やろ?」
可愛らしく笑った光一の後頭部を引き寄せて、深い口付けをねだった。
つまらない感情を彼はいつもいつも綺麗に消し去ってしまう。
不器用であまのじゃくな恋人の素直さを世界中で唯一人、自分だけが知っていた。
この優越感を、この幸福をどんな風に伝えたら良いのだろう。
まだ痣の残っている背中を抱いて、剛は愛を伝える術を探していた。
剛さんお誕生日おめでとー!!その3。
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恒例の打ち上げの席で、男だけのテーブルで広げられる話なんてたかが知れていた。
一応音楽で食っている人間が集まっているから、序盤は勿論音楽談義で盛り上がる。
真剣に、でも子供みたいな瞳で語る彼らが光一は大好きだった。
自分も狭い世界で生きているけれど、それよりももっと深くてもっと愛情に溢れている。
何が違うのかはこれだけ一緒にいても分からなかった。
自分の「仕事」と彼らの「音楽」は、根本的に違う。
完成度を置いて、姿勢や愛情は変わらないつもりだった。
仕事があれば、他の何も必要ない。
プライベートの一切を排しても不満はなかった。
それ位真剣に打ち込んで来たつもりだ。
家族も友人も恋人も、何も。
仕事が自分の生きる術で、彼らが何処にいてもギターを手放せないのと同じ原理だと思うのに。
一緒にいればいる程、その差異だけに気付く。
自分の心臓にあるのは空虚だった。
彼らは音楽にのめり込む程に愛情を蓄えて行く。
自分と、彼らーー剛と。
一体、何が違うんだろう。
俺も温かいものが欲しかった。
「光ちゃんってさぁ」
「はい?」
会も深まって来て、光一の座るテーブルには年配組と呼ばれるミュージシャン達が座っていた。
いい加減音楽の話も飽きて来て、話の進む先は自ずと猥談になる。
幾つになっても男はこう言う話が好きなんだな、と勿論自分も楽しい会話だから何の気なしに思った。
好んで下ネタを言うのは、なるべく男臭くありたいからだ。
アイドルなんて言う因果な職業をやっていて、女顔に生まれついたせいで、色々な事を言われて来た光一なりの防衛本能だった。
少女めいた桃色の唇からとんでもなく下品で卑猥な言葉が出れば、きちんと男だと思ってもらえる。
唯、わざわざ意識して男っぽいところを出さなければならない事自体が、既に普通の男の範囲を超えている事に、光一自身は気付いていなかった。
酔っ払いとは言えども、大先輩には変わりない。
呼ばれた声に、きちんと返事を返した。
「んー、お前は酔っ払ってもしっかりしてるなあ」
「別に普通に酔うてますよー」
隣からの別の声にも言葉を返して、目の前にあるサワーに手を伸ばした。
剛は何処にいるかな、と少し思ったけれど、振り返る事も出来ず会話を促す。
「何ですか?」
「うん、光ちゃんってさ」
「はい」
「セックスとか、嫌い?」
言葉を理解するのに、たっぷり三十秒は掛かった。
「……はあっ!?」
「いやいや、だから。セックス、嫌い?てゆーか、ぶっちゃけ嫌いでしょ?」
「な、何で、いきなりそんな話になんですか!?」
光一の弱点。彼自身はばれていないと思っているようだが、海千山千のミュージシャンを誤摩化せる訳がなかった。
自称下ネタ好きのこの王子様は、それこそ小学生や思春期の中学生が言うような抽象的な話には積極的に乗って来るのに、自分の話に触れる具体的な体験談は苦手なのだ。
誰もが気付いて、でもはっきり突っ込まないのは単純にこの可愛い王子が大好きだからだった。
世の中そんなに甘くない、と職業柄きちんと理解している筈なのに、最後の最後で彼は爪が甘い。
そもそも、ミュージシャンには第六感が備わっているのだった。
言葉に出来ない感情や思いを汲み取るのは得意技だ。
少し疎い所のある彼は、きっと気付いていないけれど。
「あー、それ、俺も思うわ」
「だろ?」
「……いや、だから、何で」
「光一の音楽見てると思うよ」
隣のテーブルにいるミュージシャンまで、何て事のない素振りで話に加わって来る。
そもそもこれは下ネタなのか、音楽談義の続きなのか。
光一はもうお手上げだった。
視線を彷徨わせて、助けを探す。
彼は気配を隠すのが上手いから、すぐに見付けられなかった。
もしかしたら先に帰ってしまったのだろうか。
この状況を打開する術が見付からない。
笑って誤摩化す?否、彼らにそんなのは通用しなかった。
「で、どうなんだよ?」
「や、えっと……」
「好き?嫌い?」
「えー、そんなん……。てゆーか、音楽見てるとって?」
降参して、話を微妙にずらす。
ミュージシャンの第六感は、建設的な理由がない分的確だった。
光一自身、思い当たらない節がない訳ではない。
「光一、ジャムセッションとか苦手でしょ」
「あー……はい。あんま好きじゃないです。俺、音楽センスないし」
「センスとかの問題じゃないよ。得意苦手でやるもんでもないしね」
「……ちょっと怖い、かも」
「そうだと思った」
酔っ払いのとろんとした目が、優しく見詰める。
酔っているからと言って支離滅裂な話をする人ではなかった。
「光ちゃん、ミキシングとか好きだろ?打ち込みの音作るのも好きだし」
「はい、基本オタクなんで」
「機械と向き合ってる時は怖くない?」
「はい」
「うん、やっぱり光ちゃんは人間不信だな」
「何でそーなるんですか」
「自分の音と他人の音楽がさ、融合する快感、そーゆーの。気持ち良いって思う前に光ちゃん逃げちゃうだろ。良い音持ってんのにさ」
音楽の楽しみを教えてくれたのは彼らだった。
自分で音を作る事。自分で音を奏でる事。
何もない自分の手から音楽が生まれる素晴らしさを、年端もいかない子供達に教えてくれた。
「生身の接触を怖がってるなあと思ってさ。剛は逆だろ。音楽の快感に溺れまくってる」
剛。思って、探そうとしたのを押し止められる。
肩に回された手が優しかった。
別に猥談で追い詰めようとしているのでも、音楽がなってないと責められるのでもないようだ。
「剛は、センス、あるから」
「まあ、その点は否めないけどね。あいつは何でもこなすからなあ。時々怖い時あるよ」
「やから、多分。俺と剛比べたら、俺が下手な訳やし」
「だから、上手い下手は二の次だって。剛だって上手い訳じゃねえよ。でも、ちゃんと気持ち良いの知ってる。あいつは、セックス好きだろうなあ」
どうやら視線の先に剛がいるようで、そちらを見ながら呟いた。
思わず肯定しそうになって、慌てて口許を抑える。
ーー剛は音楽もセックスも大好きですよ。
相方である自分が言って良い言葉ではなかった。
恐らく此処にいる人達は、大体の事を知っているとは思う。
剛は隠そうとするような後ろめたさを持ち合わせていなかった。
焦るのはいつも、自分だけだった。弱くて狡い自分。
「今は剛の話じゃないんだって!で、光ちゃんは?」
「……考えた事ないです」
「じゃあ、今考えろ」
引く事を知らない酔っ払いは、顔を近付けて答えを迫る。
答えなきゃ、あかんのかな。
最後にセックスをしたのは、いつだったか。
先週だったと思う。
相変わらず互いのスケジュールが合う事はなくて、性急に求めたのは楽屋だった。
人の声がする中で、剛の背中にきつく爪を立てて、悲鳴は全部キスに飲み込まれる。
身体を気遣って抱く剛の手管は、嫌になる程優しくて焦れったかった。
「もっと」と言う言葉を何度飲み込んだか分からない。
セックスは嫌いじゃないと思う。
剛の手や唇、体温や怖い位の瞳で安心する自分を知っていた。
その熱でしか癒せない餓えがある事も気付いている。
でも、と思った。
彼らの質問の大前提にあるのは「抱く」と言う行為だ。
自分はもうずっと「抱かれる」立場で、それがそのまま「好き」と言う答えに結びつくとは思えない。
彼らの質問には答えられないと思った。
死にそうな程の快楽と同じ位の苦痛が同性の、まして受け身の自分には伴う。
相手が剛だから好きなだけで、「剛と身体を重ねる事が好き」なのと「セックスが好き」なのは、また違うのではないだろうか。
剛だから許せる行為。
剛だから求めたいし、求められたい。
他の人間とのセックスは、男性であっても女性であってもそこまで欲しいとは思わない。
べたつく肌も排泄と密接している器官も汚れるシーツも何もかも。
男性の欲求は定期的に訪れるもので解消しなければ不健康だけれど、なければないで平気なものだった。
剛と付き合う前の少ない女性経験でも、そんなにセックスは欲しくなかったと思う。
「うーん……セックスが好き、ってそもそもどんなですか」
答えを出せなくて言った言葉に、全員が爆笑した。
それは、もううっかり傷付いてしまう位盛大に。
「そっから考える辺りが几帳面っつーか、光ちゃんらしいっつーか」
「単純に答えが出ないんなら、好きじゃないんだよ。俺なんか即答するもん」
「えーだって、考えません?こーゆーの」
「快楽は人間の一番忠実な本能なんだよ。考えるのは理性の範疇でしょ。その段階で間違ってる」
「でも、そんな好きとか嫌いとかで思った事ないし!」
「お前はホントに恐がりだなあ」
思い掛けず優しい声と優しい掌が落ちて来る。
甘やかす仕草で撫でる指先は、恋人のそれを思い出させた。
分からなくてええよ、と諭す甘い甘い指。
なくしたら怖いと思ってしまうものだった。
大切な記憶を抱えれば抱えるだけ、自分は臆病者になる。
「人と交わるのが怖いまんま大人になっちゃったんだな。時々お前は子供みたいで、俺達の方が怖くなるよ」
「子供なんかじゃないです」
「うん、一人前の男だと思ってるよ。でもなあ、セッションしてる時の目見るとちょっと責任感じる。もっと依存する位甘えさせて育てれば良かったなあって」
怖いのは自分のせいで、彼らの責任ではない。
ずっと一緒にいてくれた。
大人になるまで、大人になってからもずっと。
模範的な人間ではないけれど、生きる上で大切な感覚を、音楽と一緒に生きる喜びを見せてくれた。
人と交わるのを怖がるのは、大切な存在を作りたくないから。
裏切られるのを恐れて、自分の心が傷付くのを恐れて、そっとそっと他人から遠ざかって生きて来た。
セックスも音楽も他人がいなければ成立しない。
その意味では、多分どちらも得意ではなかった。嫌いだった。
他人を介して得る感情が気持ち悪い。
「何の話しとんの?」
少しの躊躇もなく入って来た甘い声は、今自分が一番求めているものだった。
上から降って来たのは間違いなく相方の持つイントネーションで、他人の感情に触れかけて怖がっている自分の緊張が解れて行くのを感じる。
「つよし」
「おお、何だ。相方来たのかー。入れ入れ」
「いやいや、そろそろ帰ろ思て、こいつ迎えに来たんすよ」
「今大事な話してるんだから、とりあえず座れって」
「つよし」
縋る声に、見上げた剛の眉がゆっくりと顰められる。
気付いた時には光一は大人達の餌食になっていて、逃げられないような雰囲気になっていた。
グレーゾーンで上手く立ち回って生きているのに、他人に白黒を求める辺りが狡い人達だなあとは思ったけれど。
少しずつ近付いて行って、会話の内容が分かった時には連れ出してあげなければと言う使命感が生まれた。
光一自身も気付いていない心理を、第六感で生きている大人達は躊躇なく切り込む。
音楽をやる人間は感性の繊細さと裏腹に、他人に対して剛胆過ぎるところがあった。
まして、音楽を齧っている人間には尚更。
彼はまだ、好きも嫌いも考えていない。
その身体に快楽を覚えさせたのは間違いなく自分で、他人が怖くないと教えたのもこの体温によってだった。
他人の全てを拒む程に怯えた心。
「つよし」
「ん?」
「ほら、とりあえず座れって」
「光一の結論聞いてないしな」
「相方なんだから、剛も一緒に考えてやれよ」
「何の話してるんすか」
とぼけて話を促して、そのまま背後にしゃがみ込む。
椅子に座った光一が振り返って、剛を見下ろした。
「セックスと音楽の快感の話」
「まぁた、好きっすねーそーゆーの」
「おう!男はいつまでも枯れないでいなきゃいけねえからな」
「そうっすね」
「で、剛はどうなんだよ」
「好きですよ」
「……剛」
光一を見上げて、笑ってみせる。
酔っ払いの話なんか適当にいなして、振り返った彼の膝に手を置いた。
潤んだ瞳が困った素振りで彷徨う。
こんな会話を光一が躱せる筈がなかった。
「やっぱりなあ。剛は好きだと思ったよ!」
「ええ、そりゃあね」
「光一が分かんないって言うんだよ。剛教えてやれって」
「そうっすねー」
「つよし」
何度も何度も零される呼び声。助けを求める声。
んー、酔っ払ってる分素直に困ってるなあ。
普段は強がりで隠す弱さも、自分が傍にいる安堵感で全て目の前に晒されていた。
「ん?」
「つよし」
「あら、」
迷わず伸びた腕が、ぎゅっと首に回る。
いきなり抱き着かれて、さすがに驚いた。
周囲の人間も驚いた声を上げる。
光一は、しがみついて頬に頬を寄せた。
体温に安堵するのが呼吸で分かる。
「どうしたの、甘えたさんやねえ」
「光ちゃん!ちょっと、それじゃ俺達が虐めたみたいじゃん」
「うちの子、虐めないで下さいよー」
「剛怖いんだって!洒落になんないから!光ちゃんーどうしたんだよ」
「うん、酔った、だけです」
小さく呟いて、抱き着いたまま瞳を閉じてしまった。
自分の内面と向き合って疲れたのだろう。
そもそもストイックに生きている恋人が、快楽を素直に享受するのは根本的に不可能なのだ。
快感を嫌悪すべきものとして認識している人、セックスや音楽に伴う恍惚が好きかと問うのは無意味だった。
彼はまだ知らない。
溺れる快楽を、死を上回る恍惚を。
他人と音で身体を重ねる刹那、どんな愛撫よりも鋭い肌の感覚。
理性でこの世界を生き抜いている彼に、それを教えるのは拷問に近い。
「帰るか?」
「ん……帰りたい。抱っこ」
「ええよ。家までちゃんと抱っこしたるわ」
わざと漂わせた甘い空気で周囲を押し黙らせて立ち上がった。
光一を抱き上げたままテーブルに座る人間を見渡すと、其処で初めて彼らが自身の言葉のいたたまれなさに気付く。
酔っ払いは頭の回転が遅くて敵わん。
「じゃ、帰りますんで。お疲れっした」
「……お、おう。お疲れ様!」
「気を付けて帰れよ!」
光一にわざわざ話させるのは構わないが、それは全て自分に繋がっているのだと言う事を彼が可愛いばかりの大人達は失念していた。
光一の情事を想像すると、相手が何処の誰とも知らない女などではなく今此処にいる人間になってしまう。
恐らく明確に自分達の図を想像したであろう彼らに含みを持たせた笑みを向けて、剛は店を出て行った。
残されたミュージシャン達は、今更ながらの失言に気付く。
「……剛って、違う意味で怖いな」
「覚えてたら、光ちゃんに謝っとくわ」
「俺、今度の収録ん時に二人の顔見れねえかも……」
好きだと明確に言い切った年若きアーティストに言い知れぬ不安を覚えたのは、全員共通の感覚だった。
剛さんお誕生日おめでとー!!その2。
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光一は、小さな頃からまるで決まり事のように自分の後ろを歩く。
習慣と言ってしまえばそれまでだけど、振り返ると見える旋毛に愛しさと僅かの悲しさを感じた。
「こーちゃん」
「……ん?」
「起きとんの?」
反応した声は、眠りに落ちる寸前のそれで、これから収録が始まるのに大丈夫なのかと苦笑する。
静かな廊下を歩く自分達の他には、前後に人がなかった。
二人きりの僅かな時間。
けれど、光一は二人である事すら気付いていない。
足許を見て、俺の足音だけで進むべき道を確認していた。
無意識の信頼は嬉しい。
俺の後を付いて歩けば怖い事はないと言う安心感だった。
多分光一は、自分が手を引いてやれば目を瞑っていても躊躇なく歩くだろう。
出会った時から変わらない彼の潔ささえ感じる感情に、愛を見るのは仕方なかった。
愛されていると感じる刹那、確実に自分は幸福だ。
スタジオまでの道程で、光一はまだ仕事に切り替えられていない可愛い状態だった。
振り返って、悪戯をしたい衝動に駆られる。
剛は思い付いた気分のままに、彼に気付かれないようそっと視線を向けた。
自分の足音を聞き分けて、半分眠ったまま下を向いて歩いている人。
柔らかな髪がきちんとセットされて揺れている。
少し長めの袖から覗く指先が幼かった。
覚束ない足取りに覚える感情は、恋人と言うより父親の心配に近い。
小さく苦笑して、自分より背が高い筈なのにはっきり見える旋毛を人差し指で突ついた。
「……っな!」
「かわいなあ、吃驚した顔」
唐突に立ち止まって、音がしそうな勢いで顔を上げる。
慌てて突つかれた頭を両手で押さえる仕草が子供と同じで、剛ははっきり笑った。
可愛い。愛しい。でも、痛む心臓が確かに在る。
光一が俯いて歩く理由。前を向いて歩けない事情。
彼は一度も口にした事がないけれど。
言葉にする程弱くもないし、同時に強くもなかった。
俺は、先に言葉にしてしまう。
いつでもそうだった。
俺達は、方法が違う。
生き方が決定的に違っていた。
だから、たまにこの後ろを歩く人が可哀相だと思う。
外を出歩かない光一が見詰めるのは、いつも無機質な床だった。
その足許にせめて花でも咲いていれば、世界はもう少し優しく映るのに。
蛍光灯を反射した床には、どんな優しさも見出せない。
一人でいる時は、どんな風に歩くのだろうか。
俯いて目許を隠して、全てから自身を隔離させて。
臆病な心を仕舞い込んで人前に立つ貴方の、どうしても変わる事の出来なかった部分。
自分の前に心ごと晒してくれる事はないけれど。
「手ぇ繋ごか?」
「……何やそれ。子供やあるまいし」
「えーやん。大人が繋いだって」
「意味わからへん」
「光ちゃんと手ぇ繋ぎたい言うおねだりやんかー」
「お前のは命令に近いわ」
「何でーええやん。好きやろ?俺と手繋ぐの」
「……スタジオ入るまでな」
「いやいや、スタンバイ入るまで繋ぎますよ」
「絶対ヤやー。健さんとかトムさんとか絶対からかわれるやん」
小さくごねながらも素直に差し出された指先を握って、同じように彼の前を歩く。
指先を絡めて、二人の距離を近付けた。
本当は並んで歩きたいけれど、それは自分の我儘だ。
光一が小さく笑った。
安心した子供のそれと同じ。
愛しさと悲しさは、身体の中でちょうど半分。
視線に怯える貴方が、安心する魔法を僕は沢山知っている。
世界が優しい色を見せる事はないけれど、何度でも貴方の前に綺麗な色を広げるよ。
剛さんお誕生日おめでとー!!その1。
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「おい!剛!良いから飲め!!」
いつも通りの打ち上げの席で、小柳トムは声を張り上げた。
元々大きな声で話すから、格別張り上げたつもりはないかも知れない。
正面に座った堂本剛は、会話に参加しているように見せながら、背後を気にしていた。
わざわざ視界に入らない席に座らせたトムの努力が水の泡だ。
「お前なあ、四六時中一緒にいる相方より、今は此処にいる人間を大事にしろ!」
「四六時中おる訳やないです」
少し的外れな事を言いながら、拗ねた素振りでカルビを口に放り込んだ。
不機嫌な恋人と言うよりは、心配で仕方のない父親の表情だ、とトムは思う。
手放した相方は、自分達のテーブルを二つ挟んだ一番奥にいた。
こっちが男だらけのテーブルなら、光一の座る四人席はお花が咲いている。
勿論、トムの目からすればハーレム状態ではなく、光一まで含めてお花畑だった。
可愛らしい、と目の前の不機嫌な男を通り越して思う。
剛の努力とマネージャーの配慮とトムの策略で、光一は大体女性陣のいるテーブルに座る事が多かった。
女性とのゴシップは御法度のアイドル業だが、それでも男性陣の中にいるよりは安心だと言う判断だ。
こんな危険な所に花を咲かせるよりは、ずっと安心して見ていられると言うのが光一の周囲にいる人間の見解だった。
奥のソファシートにユカリと深田恭子が座り、手前の椅子に光一と今回のゲストであるピン芸人の女性が座っている。
こちらから光一の表情は見えなかった。
今日散々収録中にネタとも本気とも取れる告白を受け続けて、一本目の収録だったにも関わらずこの打ち上げに参加しているのに、光一に危機感はない。
興味がないと言えばそれまでだが、目の前に座る嫉妬の塊は、恋人の無関心ささえ気に触るようだった。
おかしな二人だと思う。
光一は驚く程の気遣いで仕事をするのに、プライベート特に自分の事になると心配になる位無頓着だった。
対して剛は、マイペースに仕事をしているように見えて、常に気を張って周囲を見ている。
相方については、過干渉だと思う程、良く見ていた。
今日のこの打ち上げで不機嫌になるだろう事は予想がついたので、最初から配置を考えたのだ。
あの二人が訳も分からず煽られているのを見るのは楽しいから、剛を離す事だけ念頭に置いて。
目論見は成功している。
向こうのテーブルはきゃあきゃあ楽しそうだった。
迫られれば逃げるを繰り返す光一の後ろ姿を見ていると本当に可愛いと思う。
計算がない分、女の子より危うい感じがした。
あれで二十八のおっさんだと言うのだから犯罪だ。
自分の子供はいつまでも可愛いものだが、そう言うのとはちょっと違った。
「ほら、お前。この間ギター買ったって言ってただろ。どんなんだよ。話せって」
我ながら適当な話の振り方だと思う。
どうして、こんなに分かりやすいかなあ。
不可思議な格好をして、宗教じみた哲学を持っている癖に、この男が持つ愛情は至ってシンプルに出来ていた。
その愛情が、光一を確実に可愛らしくしている。
手塩に掛けられた花は枯れる事を知らないかのように咲き続けていた。
「……駄目やわ、俺」
「あ?何が」
「駄目です、やっぱ。行って来る」
いきなり宣言して、剛は立ち上がる。
いや、待て。俺はお前にギターの話を振っただけだぞ。此処で今すぐお前の音楽哲学を話せ。
残念ながら、トムの胸中は言葉になる前にないものとなった。
飲めと言っても飲まなかったビールのジョッキが空になっている。
「あー、やっちまったか……」
「トムさん、ばればれだから」
「剛を酒や音楽ごときで引き止められないっしょ」
同じテーブルに座っていた共演者に軽く笑われた。
畜生!笑われるのが俺は一番腹立つんだ!!
せっかく可愛いテーブルの様子をもっと眺めていたかったのに。
剛の向かった先は、真っ直ぐ一番奥の席だった。
盛り上がっているテーブルの中で、最初に不穏な空気に気付いたのは深田だ。
あの子は勘が良い。
あ、と小さく呟いてやんわりユカリの方へ笑顔を向けた。
先回りの上手い子だ。
後ろを向いている光一はまだ気付かない。
その真後ろに立った剛の背中からは、黒い空気が垂れ流しだった。
嫉妬も独占欲も愛情の内だ。
トムはアルコールを流し込みながら、事の顛末を見守る事に決めた。
「光一」
離れた席からでも僅かに剛の声が聞こえる。
その瞬間まで相方の存在等忘れていただろう光一は、呼ばれるままに見上げて笑ったようだった。
アルコールの回った屈託のない笑顔は、何年見ていても見蕩れるものだったし、飽きる事のないものだった。
あの笑顔を失わない光一は凄いと思う。
後ろから覆い被さるように立つ剛と目線を合わせて、「どうしたん?」と聞く柔らかな声。
隣に座る女性ゲストも前に座るレギュラー陣も全て、彼の視界から消えたようだった。
離れていれば忘れられる癖に、視界に入った途端他の何も要らない顔をする。
その表情だけで満足すれば、剛も大人になったと言えるのだが。
ちょっとした悲鳴が上がったのは、その一瞬後。
何の躊躇もなく見上げた光一の唇に自身のそれを重ね、僅かに上唇を舐めて離れて行く。
二人にしてみれば軽い接触だが、周囲にしてみれば不意打ちの恐怖だった。
動じていないのは、剛と深田だけだ。
光一は、吃驚した目を見せて、それからいつものようにネタにしようと笑った。
「おっまえカメラ回ってへんでーなあ?」
隣に座る人に笑顔で同意を求める。
うーん、さすがに固まってるね。いくら何でも切り返す事は出来ないだろう。
光一は気付いていない。
その接触が、笑いを取れるものではなく間違いなく恋人同士のものだったと言う事に。
剛は悪い男の顔で笑って、こっちのテーブルに来いと誘っていた。
「えー、動くのめんどいー」
「ええから、いらっしゃい」
剛の不機嫌等気付く事もなく、光一はいつものように舌足らずに駄々を捏ねる。
トムは、やっぱり二人とも可愛いと思って、光一が座れるように自分の隣にスペースを空けた。
まだ驚いたままの女性ゲストの表情が可笑しくて、一人で笑う。
「何笑ってるんすか?」
強引に恋人を連れ出した剛に、タチの悪い子供の表情を作ってどんな嫌がらせをしてやろうかと策略を巡らした。
この軽いノリと無意味さはいかがなものか……。
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