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それはほんの気まぐれだった。
仕事が日付を越える前に終わって、疲れた身体を連れて帰ればすぐにでもベッドに潜り込める。けれど、一人の部屋で休むよりたった一人に会いたい欲求の方が強かった。
見飽きた顔を見て、やつれた頬に触れて、何でもない顔で笑う。
それから。その先を思い付かないまま、マネージャーに車を彼のいる劇場まで回して貰った。
さすがに彼も文句は言わない。いつも厳しい人だけど、家に帰る事だけが休息ではないと知っていた。
暫くぶりに踏み入れた場所の神聖さに躊躇せず、真っ直ぐ座長の楽屋へと向かう。
出迎えた最愛の人は疲れた表情を隠せないままだったけれど、アイスクリームが蕩けるみたいな笑顔で迎えてくれた。その愛らしさにほっとして、言葉もなく連れ帰る。ずっと彼は静かに笑っていた。
唯一つ気になったのは、年々彼の大事にしているカンパニーの風当たりが強くなっている事だ。最初は気のせいだと思って気にも留めていなかったけど、さすがにこのあからさまな空気はきつい。
愛されているのだなあと思う親心と、常に一緒にいる彼らへの敵対心と、剛の気持ちはいつでも紙一重だった。
+++++
自分の部屋に連れて帰って、まずは風呂に入れた。疲労を蓄積した身体は素直に俺に預けられる。普段は「お前も疲れてるのに」だの「恥ずかしい」だのとごねて、一苦労だった。
それでもさすがに終盤を越えた舞台は、強がりさえ許さない。他人の手に自分を委ねるのは、恋人であってもなかなか出来ないのに、入浴剤を入れたバスタブに沈む身体は驚く程従順だった。
風呂上がりの桃色の肌を柔らかいバスローブで包んで、ソファに座らせると丁寧に髪を乾かす。
自身の疲れは澱のように腹の底にあるけれど、恋人に手を掛けてやれば心臓に巣喰った醜悪な感情がそっと浄化されて行った。自分にも彼にも必要な行為なのだ。
甘やかして甘やかされる。
相互依存の関係を互いに許す一時。
光一は気持ち良さそうに目を閉じたまま。自分はきっと、呆れる位優しい顔をしている。
何も食べないと言い張る彼の強情に早々に諦めて、寝室へと運んだ。きゅっと抱き着いた仕草が可愛らしい。
いつまで彼は可愛いままでいるのだろう。そう問えば、「俺を可愛いなんて言う阿呆はお前だけや」なんて憎まれ口を叩くだろうけど。
ベッドに降ろして、何気なくその細い筋張った足を見遣る。
「あ、光ちゃん」
「……なん?」
ほとんど眠りに引き込まれた声音で返される。清潔なシーツに押し付けられた頬はあどけなかった。
瞳を隠す飴色の髪を梳いて、小さく笑ってみせる。
「足の爪、伸びてる」
「ああ。何かなあ、親指の爪取れてもうたやろ?したら、色々力入らんねん」
邪気なく笑った光一の表情は穏やかだった。
舞台の上で負った傷を、彼は傷と思わない。背中の痣も、打ち付けた足も何一つ。
自分を大切にしない光一に苛立った時期もあった。今更もう、彼の事に口を出す気はない。
身体の痛みより、もっと深い痛みに気付いていた。目に見える傷なら癒す事が出来るけど、心臓の奥深くに付けられた傷は一生消えない。
その傷の中にはきっと、自分が付けたものもあるのだろう。口には出さずに、捨ててしまえば良いそんな全てを大事に抱えて生きている人だ。
おざなりに巻かれた親指のテーピング。変色して消えるのを待つだけの背中。
眠りの淵にいる彼の表情に痛みはなかった。
それが余計辛い。
「つぉし?」
「……おっちゃんが、爪削ったるわ」
自分が抱えるのは、身勝手な感傷だった。
光一はきっと、倒れても走り続ける。打ちのめされても何を失っても、必ず立ち上がる。そんな彼が好きだった。
だから、自分は何も言わない。唯、走り続ける彼の一番近くに寄り添うだけ。誰にも踏み込めない、その深層を共有すれば良かった。
一度寝室を離れて、爪やすりを取って来る。嫌がるかな、とも思ったけど、ついでに透明な壜も手にした。
寝室に戻ると、ベッドの上の人はほとんど夢の中だ。無防備に投げ出された手が緩く閉じられている。眠るこの時間だけ、光一は何の不安もない子供に戻るのだ。
「……ん、つょ?」
「寝とってええよ」
「ん、ごめ……」
言い終わる前に瞼が下ろされた。規則正しく刻まれる心拍を掌で確認して、右足を自分の膝の上に乗せる。
少し乾燥した感触に眉を顰めると、そのまま甲の骨の筋を辿った。性的な接触ではない。唯労る仕草で。
丁寧に爪の一つ一つを削って行く。爪が伸びてるのなんて絶対嫌がる癖に、そんな日常の事も出来なくなる位酷い怪我をしているのだと言う事を認めなかった。
両方の爪を綺麗に短く揃えて、少し悩んだ後持って来た壜の蓋を開ける。きっとこれなら光一は気付かないだろう。気付くのは、衣装さんかマネージャーか、もしくは秋山か。
幼い独占欲なのは分かっている。今更こんな事をしなくても、あそこにいる人間はこの座長が誰を一番に思っているかちゃんと知っていた。
だからこれは、正真正銘唯の自分の我儘。指摘されて気付いた光一が、小さく悪態を吐く様を思い浮かべてひっそり笑った。静寂に紛れたその声は、今日一番狡くて自分らしい。
蓋を閉めて、サイドランプに反射する指先を見詰めた。きらきらきらきらと、柔らかく煌めく透明な光。
光一にばれないように、左の甲に口付けを落とした。彼は、自分が服従する事を例えふざけた仕草であっても嫌がる人だから。
でも、此処にあるのは愛しい愛しいと言う心。
腹の底に沈んだ澱が静かに綺麗な七色へ変化する感触。一人で闘えば闘っただけ、自分は醜くなって行く。
それすら人間の魅力だと思ってはいるけれど、汚い物ばかりをその瞳に映しても濁らなかった彼を見るとほんの少しだけ、自分が可哀相に思えた。
七色の澱は、消えずに体内にある。何度光一に触れても癒される事のない穢れ。それで良かった。だから俺達は二人で、寂しさを持て余しながら一緒に生きて行くのだ。
きらきらの爪が完全に乾くのを見届けてから、剛は光一の隣に潜り込んだ。温かい身体。無意識なのだろう、自分の感触を敏感に捕まえて、細い腕が抱き締める為に伸ばされた。
彼が優しいと思うのはこんな瞬間だ。呆れる程の愛情に泣かされるのはいつもの事。
傷付いた指先を包み込んで、自分の七色が彼を蝕まないように慎重に抱いた。二つの身体がせめて、この夜を越えるまで一つになれば良い。
規則正しい呼吸に誘われて、同じ夢に引き込まれて行った。別々の体温を同じ温度へ上げて行く。
ライトを消しても、光一の指先は淡く発光しているような気がした。
人に足を預けるのって、一番無防備な姿だなあと。
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心地良い微睡み。抱き合った後の、清廉なまでの空気が光一は好きだった。
濃密に睦み合った筈なのに、いつでも優しい倦怠感だけが残る。剛の腕に抱かれて眠るこの一時が永遠に続いて欲しいと、何度願ったか分からなかった。
決して口には出せない思い。胸の裡に秘めているだけのそれは、何よりも真摯なものだと自分で思った。
「こぉいち」
「……なん、寝たんやなかったの?」
「ちょお寝てたわ。お前が、寂しそうな顔するから起きてもうた」
「なぁに余計な心配してんの。俺は平気やで」
剛は、敏感な嗅覚で確実に自分の揺らぎそうになる感情を嗅ぎ付ける。放っておいてくれて良いのに。これは、自分だけの感傷だ。
彼の腕に抱かれる幸福の裏側にいつでも潜んでいる悲しい気持ち。欲しいと思ったこの温もりをいつ失うのかと言う恐怖。
そんなの、剛は知らなくて良い。
「こーちゃん」
「なに?」
「愛してるよ」
「……うん。大丈夫」
噛み締める様に零れた言葉。真実味のない嘘ばかりの声だった。愛されていないと思っている訳ではない。唯、剛と光一の間には決して埋まる事のない溝がある。
「お前の大丈夫は信用してへん。……俺は光一だけをずっと愛するから、そんな顔したらあかんで」
「信用、してくれへんの」
「ぉん。って、俺が信用されてへんからあかんのやろね」
抱く手に力を込めて寂しそうに零された。違う、と否定したくて、でも出来ずに剛のまだしっとりと汗ばむ胸に額を押し付けた。愛しい男の匂い。永遠に愛すると誓うのは、自分だけで良い。
「剛」
「ん?」
「お前は、ええんよ」
「良いって、何が?」
「俺がお前だけを好きなのは当たり前の事やけど、剛は俺だけ好きじゃなくてもええの」
猫背の背中に腕を回して、しっかりと抱き着いた。密着する体温が愛しい。知り尽くして暴かれ尽くした互いの身体。一つにはなれないと知っている可哀相な二つの身体。
「剛は、沢山のものを見て、一杯愛したらええんよ。お前は、唯一のものなんか作ったら絶対あかんよ」
「浮気しろって事?」
「そう言う意味ちゃうって」
笑いを含んだ声に、剛の言葉が本気ではない事を知る。自分以外の、出来れば女性を愛して欲しいと言う願いは、今でも心の何処かに巣食っているけれど。
あやす様に撫でられる背中。いつでも、その手だけは呆れる程優しかった。俺が欲しいのは、お前の心じゃない。そんな大きなものは望んでいなかった。
「お前が唯一のものだけを見詰めるのは不幸や。俺はお前に幸せになって欲しいから、沢山のもの愛して欲しい。その隣にいられれば俺はええんよ」
まるで禅問答だと剛は思う。言葉の足りない光一が、稀にこうして雄弁になる事があった。形にならない内面を表現しようと言葉を募らせる姿は可愛い。この人だけが愛しかった。
愛する事、その行為自体が幸福なのだと言う事を光一は知らない。お前だけを愛しているんだと言う事を、どうすれば信じてくれるのか。
「じゃあ、光ちゃんは?」
「え」
「光ちゃんは、沢山愛さんの?」
「俺は……、たった一つでええんよ。唯一のもんしか欲しくないから」
何処まで行ってもロマンティストな人だった。現実を見ているのに、その瞳はいつでも理想を追い掛けている。
抱き締めた光一の旋毛にそっと唇を落とした。汗ばんだ髪はしっとりとした感触を伝える。微睡みの時間。此処には、愛情しか存在していない。
「光一の、唯一のもんって何なん?」
「……教えへん」
「教えて?」
確信犯の声で囁けば、予想通り「意地悪」と言う小さな声が返って来た。それにくすりと笑って、きつくその身体を掻き抱く。甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「ちゃんとお前の口から聞きたい」
「……おま、最低や」
「最低でも何でも、お前の大事な彼氏やで」
嬉しそうに囁かれて、降参する。こいつの厚顔には慣れたつもりだけれど、聞き慣れない『彼氏』と言う言葉につい恥ずかしくなった。勿論、そんな自分の反応も分かってわざと言っているのだろうが。
「……俺が、剛以外の何を大事にしてるっちゅーねん」
「そっか」
「そうや」
「なら、俺も光一だけを愛したってええんちゃうの?」
「あかん」
「強情やね」
「剛は俺ばっかになったらあかんの」
「光一は俺ばっかやのに?」
「俺は、やって、後、仕事位やし……。両手一杯にならへんもん」
子供なんだか男らしいのか分からない頑固さで言い募る。唇を尖らせているだろう拗ねた声音。
光一の中で自分が占めている割合が、多ければ多い程嬉しくなってしまう。本当は、彼にも色々な世界を知って欲しいけれど。掌に閉じ込めたかった。何処にも行かない様に、鍵の掛かる部屋でずっと。
とりとめのない妄想は、現実から離れれば離れただけ感情のリアリティーを生み出す。真剣にそう願っている自分に気付かされる。危険な欲求だった。
「俺やって、お前ん事愛したいのに」
「もう愛されてるから充分やで」
その言葉にわざとらしく溜め息を吐く。いつまでたっても彼の謙虚さは変わらなかった。仕事の面では驚く程の貪欲さを見せる癖に、自分からの愛情に関しては、今も何処かに負い目がある。傍にいられるだけで良いのだと、心から思っている人だった。
「光一さんは、いつになったら自分に優しくしてあげられるんでしょうね」
頑なな恋人の顔を見たくて、腕を解いた。視線を逸らそうとする細い顎を掴んで上を向かせる。細い髪の間から覗く水分を多く含んだ瞳。この人の強がりは、きっと一生直らない。
「前にも言うたかも知れんけど、俺はお前と一緒にいられたら充分なんよ。幸せなんかいらん。俺らは、ずっと一方通行やなあ」
「……お前を一人にしたくないんや」
「光一は、俺を置いて何処かに行く気か?」
「違う、けど。一緒いたいけど。でも、無理やろ、そんなん」
「一緒におったらええんちゃうの?俺は一生一緒におるつもりやけど」
先の不安まで見通してしまう悲しい心は、自分より余程繊細に出来ていると思った。俺は、もう他の事なんか考えんよ。今出来る事、それだけで生きて行きたい。
「一緒にいて、ええの?この先も?」
「そうや。誰に何言われても一緒にいる。お前が、この手離そうとしても絶対離さん」
言って、指先を掴んだ。乱暴な仕草に安心する光一の深層を知っている。ほっとした様に零れる吐息が、雄弁に心情を吐露した。
「だから、光一もあんま難しい事言わんといて。俺そんな博愛主義やないから、色んなものなんか愛せへんよ」
「剛なら、難しくないもん」
まだ強情を張る強い瞳に負けて、その瞼に口付けを落とす。羽毛の様な接触。お前を愛する事で俺は一杯一杯なんよ。
今も尚美しく変化して行く貴方を。いつまでも自分だけのものにする為に。
『唯一』を厭う彼の不安は分からなくもない。色々な世界を見て欲しいと願う切実な声。幸福に近い場所で生きて欲しいと祈る優しい微笑。死の瞬間まで一緒にいられないと怯える指先。唯一である自分に向けられた全てのものを、もう見失わずに受け止めてあげたかった。
お前を一人にしたくない。その視線の先には果てしない未来が広がっているのに、此処に留まり続けるお前の幸福を願えない自分が出来る唯一の事だった。
愛し続ける事。何もかもを奪い尽くす事。目隠しをして閉じ込めても彼は怒らないだろう。その従順に泣きそうになる。
もっと我儘に生きても良い人だった。それを許される人だった。
けれど、我儘が俺を愛する事だと笑うなら。傍にいたい。この身体を抱き締めてやりたい。
「光一」
「……ん?」
「いつか、俺、お前に愛してるって言いたい」
「いっつも言うてるやん」
「届いてへんやろ?いつか、お前がお前を許してやれるまで、ずっと言うから。いつかの時はちゃんと聞いてな」
「……ん、分かった」
素直に頷いて、睡魔に引き込まれ始めたらしい光一はそのまま瞼を閉じた。
広い空が広がっていても飛び立とうとしない美しい羽根を持った鳥は。悲しい声で鳴く事すらせず、俺が汲んだ水を小さな音を立てながら飲むだけだ。
その中に毒が含まれていてもきっと、青い空すら見上げず透明な滴を喉に運ぶだろう。愛する事が悲しい事だと知っている可哀相な鳥は、この掌の上でゆっくりと体温を失って行く。美しい羽根を羽ばたかせる事なく、永遠の休息に就くのだ。
腕の中の愛しい人を見詰めながら、それでも愛しているのだと囁いた。お前を生かす為にこの愛はあるのだと、知って欲しかった。
唯一の世界は、互いに遠い場所。
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可笑しい、と思ったのは舞台が始まって一週間程経ってからだった。
米花は一人、舞台装置の置かれた舞台裏で悩んでいる。眉を顰めて一点を見詰めている背中は不穏な気配さえ滲ませていて、誰も彼に声を掛けられなかった。
その瞳の先には、冬期限定のヘルスメーター。
座長の健康管理は、自分の責務だ。秋山がフォローするのと同じレベルで、既に当たり前となってしまった体重係。
たかが体重、されど体重。自身の事に無頓着な傾向のある先輩には、きちんと管理すべき人間が必要だと思う。甘やかすのでも好きにさせてやるのでもなく、必要な言葉を与える存在。
自分がその責任を全う出来ているかと言えば自信はないが、それでも痩せて行く座長を近くで見ているだけよりはずっと良い。甘えたがりで寂しがりの癖に人の手を厭う人だから、簡単には世話を焼く事が出来なかった。
だから自分は、なるべく彼すら気付かない様に手を伸ばす。何の自覚も罪悪感も必要なかった。唯、健康に千秋楽を迎えて欲しい。
だから、可笑しいのを見ない振りで通り過ぎる事は出来なかった。今年は厳密に体重を記録している訳ではない。どれ位になったら辛いか分かるから、と言う理由で断られた。
本当は、初日の段階でいつもより少ない体重を知られるのが嫌だったのだろう。数値として分からなくても、ずっと一緒にいた自分達には分かってしまう。81と言う公演数をこなせる体力ではなかった。
足りないものを精神力で補うのは、彼の悪い癖だ。座長と言う場所を代わる事は出来ないけれど、その背中に負ったものを一緒に背負う事は出来るのに。光一は、全てを一人で抱えてしまう。
他人に余計な不安を与えない事、それは子供の頃の猜疑心や疑心暗鬼から生まれた処世術だった。付け入る隙を与えなければ、ダメージは少ない。そうして大人になった不器用な人だった。
本当はもっと早くに指摘した方が良かったのかも知れない。先程楽屋に捌けて行った光一の顔色を思い出した。舞台の上で幾ら気丈に振る舞っていても、その印象は隠せない。しんどくて堪らないだろうに。
青白い顔色とは裏腹に増えている体重。更に華奢になった腰や足首。浮き出た鎖骨が痛々しかった。増えている筈がない。
「……はあ」
一つ溜め息を零した。心配位させて欲しいのに。自分達に負担を掛けないが為に、彼は嘘を吐いている。
いつも衣装を着たまま体重を量っているから、最初から衣装分の重さは引いてあった。それを計算するのは自分の役目だ。
「ワイヤー用の、かな……」
舞台袖で身体に付けている機具は外して、エレベーターに乗っている筈だ。僅かに増えている体重の原因は、衣装の中で何かを着けたままにしているせいだ。しかも、意図的に。
先刻量った時の、困った様な笑い方。あれは良く知っている。諦めと誤摩化し。悟られない事にほっとする大人と、悪い事をしていると縮こまる子供の心。
手間は掛けさせないで欲しい。……否、迷惑でも手間でも何でも掛けて欲しかった。俺は、貴方が思ってるより貴方の事をずっと考えているんですよ。
もう一度溜め息を零して、床に置かれたメーターを抱えると真っ直ぐ楽屋へ向かった。
+++++
「失礼しまーす!」
「ぅいー。……なん?米花かい」
おっさんみたいな声と、子供みたいな笑顔。一瞬惑わされそうになって、慌てて表情を引き締めた。修行が足りない。
「どしたん?入り」
「はい。あの、スタッフとかマネージャーは……」
「もぉいないで。終わってからどんだけ経ってんのよ。マネは一旦事務所戻るって」
がらんとした室内。其処に取り残されたみたいな華奢な身体が一つ。促されるままに光一の近くに腰を降ろした。私服のジャージは相変わらず健在で、帰る気があるのかないのか袖を通し掛けたままの中途半端な状態で座椅子に座っている。
覗く二の腕や首筋の白さは、本当に男性なのかと疑ってしまう程だった。寧ろ女性だったらどんなに良いと思った事か。自分の抱えているこの得体の知れない感情も、彼が女性なら簡単に名前を付けられる。どうにもならない事だった。
「光一君」
「んん?」
気の抜けた声。自分に馴染んでいる事が分かって嬉しくなる。こんな姿を晒してくれるまでになったのは、本当に最近の事だった。秋山の事を羨ましいと思いながらも、積極的なタイプでもなかったしどんな風に手を伸ばしたら良いのか少しも分からなかったのだ。
今は、とても近い場所にいる。臆さず触れる事が出来る。
「体重計、も一回乗ってもらえますか」
「……え」
あからさまに怯んだ声音。ヘルスメーターを差し出すと、困った瞳で見上げられる。これに負けてはならなかった。健康管理、と呟いてもう一度丁寧にお願いする。
「ジャージなら薄いし、ちょうど量りやすいですから」
「……米花」
「乗って下さい」
「……いや」
「光一君」
「や、やもん」
「光一君」
「……米花、意地悪や」
子供の仕草で唇を噛んで、差し出したメーターを押し返された。
「分かってて、言うてんのやろ」
「こんなやつれた顔して、体重増えたなんて誰が信じますか?」
「やって、減ってくんどうにもならなかってんもん」
「減ったなら減ったで構わないんですよ。ホントに分からない人だなあ」
メーターを脇に置いて、距離を縮める。こけた頬はメイクを落とした後では、痛々しい印象しか見せなかった。それでも美しいと思ってしまうのだから、彼は希有な存在だ。
ゆっくりと手を伸ばして、指先で輪郭を辿った。一瞬緊張した肌は、冷え切っている。噛み締めた唇を解くと、柔らかい吐息が零れた。
「心配、されるの嫌やったん」
「知ってます。だから、俺も今日まで騙された振りしてたでしょ?」
「ずっと知らん顔しとれば良かったのに」
「出来ません。大事な座長の健康管理ですから」
「……健康管理位、自分で出来る」
「出来てないでしょ。強がりだけは人一倍なんだよなあ。たまには、俺の言う事聞いて下さい。素直に心配させて下さい」
「嫌」
「……まあ、良いや。光一君が嫌がっても俺は勝手に世話焼きますから……よっと」
「え!うわっ!ちょっ……っ!!」
掛け声と共に、光一の身体を抱き上げた。秋山みたいに丁寧なお姫様抱っこじゃなくて、右の肩に担ぎ上げるだけの乱暴な動作。急な動きは彼の苦手分野だ。半分に折れた身体がじたばたともがいた。
軽過ぎる。一応男性だし、身体はきちんと鍛えられているプロなのだからと覚悟をして抱えたのに、そんな必要はなかった。本当にこんな華奢な身体で、あれだけの動きが良く出来るものだ。
「今日、何か約束ありますか?」
「……え、何」
「約束」
「え、……と」
「剛君が来るとか、剛君家に行くとか、剛君とご飯食べるとか、そう言うのあります?」
「……ない」
「良かった。じゃあ、行きますよ」
問答無用で、座長を抱えたまま楽屋を出る。それならば丁度良い。明日はソワレだけだし、他の仕事が入っていない事はリサーチ済みだ。
「米花、降ろして」
「駄目です」
「逃げんから」
「俺が運びたいだけなんで、放っておいて下さい。それとも、お姫様抱っこの方が良いですか?」
「そぉゆう訳ちゃうけど。……何処行くん?」
「此処です。……おーい!座長ご到着!!」
後ろを向いている光一には見えないだろう。単純に自分の楽屋に戻って来ただけだ。呼び掛ければ、予想通り町田が最初に現れた。
「光一君っ!?……って、おい!米花何やってんだよ!」
「何って、拉致?」
「いや、洒落になってないし」
手前から顔を出した秋山が、呆れた顔で告げる。町田が手を伸ばすのに知らん顔で、もう一度光一の身体を抱え直した。健康管理は俺の担当。
「光一君と焼き肉行こう」
「おまっ何言うて!」
「嘘吐いた罰です。奢って下さいね」
「奢るのは構へんけど、そうやなくて!何で今から……」
「光一君の増量計画です。食べて貰いますよ」
「公演終わった後に、食える訳ないやろ!」
「食ってもらわなきゃ困るんですよ」
「別に食わんでも平気や」
「……このままの格好で焼き肉屋まで運ばれたいですか?」
「米花さん、もう降ろしてやんなよ。光一君顔真っ赤だぜ」
一番最後に出て来た屋良が後ろに回り込んで、光一の上半身を起こしている。仕方なく、やっぱり少しだけ乱暴な仕草で抱えた身体を降ろした。町田が心配そうに背中を支える。
「まあ、確かに光ちゃんはもう少し食べた方が良いよね。俺らなら平気だけど、ホントに行く?」
優しい声音で問うのは、秋山だった。結局、どんなに足掻いてもこいつには敵わない。俺の役目は座長の健康維持なのだから、そんな事で胸が痛む必要はなかった。
けれど、悔しい気持ちがあるのも事実で光一に向き直ると乱れた髪を梳いてやる。伏せた目を覆う睫毛が、頬に影を落としていた。
「食べさせてあげますよ」
掌に納まってしまいそうな小さな頭。自分も大きい方ではないけれど、彼の身体の小ささにはいつも驚かされた。身長だけではなく、その全てのパーツが繊細に出来ている。
ゆっくりと瞳が上がった。黒目ばかりの、きらきらと反射する綺麗な黒。
「……食べさせてくれんの?」
「光一君の体重係ですよ、俺。当たり前です」
「当たり前なんや」
「はい!俺も俺も!食べさせたい!光一君にあーんしたい!」
「そう言う意味じゃねえって」
「そぉゆう意味ちゃうの?」
なるべく平静を装って町田に返した突っ込みを、光一が邪気なく切り返す。否、あんた28でしょ?最早何処に突っ込めば良いのか分からなくなって、後頭部を撫でていた手をその華奢な肩に置いた。
秋山が後ろで小さく笑っている。屋良が暢気に俺支度出来てるけど、と言っていた。町田に至っては、行く気満々で笑顔だ。
「……行きましょうか」
「うん」
中途半端なジャージの上着のファスナーを上げる。首元まできっちり締めて、その白い肌を隠した。
食べてしまいたい位可愛い、とはさすがに言えなかった。
50だから、少し区切りなものを、と考えていたのに全然違うものが……。
米光は相変わらずイチオシです(笑)。
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いつも一緒に歩いていた。
離れそうな時も離されそうな時も、離したくなった一瞬さえ手を繋いでいた。この手を、もう離したくない。誰に何を言われても、例え望まれない関係でも構わなかった。
俺はもう、迷わんよ。
此処まで一緒にいられたのだ。後悔も懺悔も胸の内にあるけれど、未来を夢見たかった。
お前と一緒の、優しい明日を築いて行きたい。
舞台の裏は薄暗く埃っぽかった。空気を震わす程の大歓声は耳に痛い位なのに、今剛と二人でいる階段は静寂に包まれている。
年が明ける前の一瞬。自分が生まれたその日。
ずっと剛と一緒に過ごして来たけれど、こんな風に仕事中とは言え二人だけで迎えるのは初めてだった。粋な計らい、と茂君は笑っていたけれど。KinKi Kidsが10周年を迎える為の演出以外の優しさが其処には滲んでいる。
もう、こんな所まで来たのだ。28歳と言う年齢も10周年と言う区切りも余り実感はなかった。
唯、分かるのは今も隣に愛しい人が変わらずに在る事。無くしたくないと必死に繋ぎ止めていた存在が、この手の先に在った。
嬉しいと思う感情は、もしかしたら自分だけかも知れない。こうして二人で年を越えられるのも、誕生日を迎えられるのも。
「光一」
静かに呼ばれて、隣を振り向く。ステージの上ではカウントダウンが始まっていた。30秒前。
「なん?」
「手、」
そんな風に確認しなくても、指先が触れれば繋ぐ事は出来るのに。瞳を合わせて問われるままに、手を差し出した。
剛は優しい表情を見せて、その手を恭しく取る。忠誠を誓う騎士の様に、手の甲を上にして胸の辺りまで持ち上げられた。
10秒前の声。客席の歓声も大きくなり、舞台裏も大音響に包まれる。
けれど、此処に在るのは静謐だった。他者を介在させない、二人だけで築き上げて来た空間。
スタッフが大きな声を上げる。ステージに出るまで後僅か。身体は勝手に動くけれど、剛に囚われた右手はそのままだった。
「これからもずっと、一緒やで」
手の甲にそっと口付けられる。確かめる行為は、確実に自分を安心させた。今までも、これからも。愛している、と声には出せないけれど深く思った。
この人だけをこれからもずっと、愛し続ける。
ステージの上では大きな音。それに紛れるように離れて行く手。代わりに渡された言葉。いつも、誰よりも先に聞きたい声。
「誕生日、おめでとう」
指先を離して視線を前に向けて、階段を駆け上がる。そっと、右手の熱を忘れない為に同じ位置に唇を重ねた。
この先も、ずっと。剛の傍で生きて行きたい。
光一さんお誕生日おめでとう。……遅過ぎますね(^^;
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小さな二人に与えられたホテルのツインルームは、それでも自分達のポジションを考えれば贅沢な物だったと今では分かる。
あの時には見えなかった、大人の策略や子供の妬みの意味も、今では痛い程理解出来た。
それが大人になる事だと隣で笑う綺麗な人は躊躇なく信じているけれど、そうではないと思う。
道理を知るより割り切った顔で乗り切るよりもっと、大切な何か。
今ではもう彼の表面に表れなくなった何かを自分は欲していた。
光一が渡してくれない、無条件の信頼や愛情を、今更取り戻したいなんて、言える訳はなかった。
俺を気遣って見せない様に一生懸命努力して来た心情を思うと、手を伸ばして引き寄せる事は出来そうもない。
だから。
一人の夜は、昔の、まだ二人とも子供だった頃の記憶を手繰って優しい眠りに落ちた。
大人になった二人には見る事すら叶わない楽園を。
あの時確かに、僕達は知っていた。
+++++
決して広い間取りではないホテルの部屋でも、新幹線を使ってレッスンに通っている二人には心細いと感じる広さだった。
眠る事のない街に突如放り出された恐怖心は、簡単に消える事はない。
それでも、一人じゃなくて良かったと思うのはこんな時だった。
光ちゃんがいてくれて嬉しい。
臆病者だと自覚のある自分より尚怯えた瞳で自分を見上げる一つ年上の彼がいたから、自分は逃げ出さずにレッスンを続けられた。
俺がいなければ駄目なのだ、と言う自負はほとんど陶酔に近い。
「剛」
「んー?」
ソファでテレビを見ていた光一が振り返って、名前を呼ぶ。
変声期を越えて、少し低くなった声。
それでも甘い響き。
ベッドの上で宿題をやるでもなく広げていた自分を見詰める光一の目は、少し赤い。
眼鏡の奥の黒い瞳はとろんとしていて、どうやら眠いらしい。
レッスンで疲れているのだからすぐ寝れば良いのに、ぐずぐずと起きているのは悪い癖だった。
「どうしたん?」
「剛、もう寝る?」
「光ちゃんが寝るなら、僕も寝るで」
「そぉなん?」
ことりと首を傾げて、不思議な顔をする。
音量を抑えられたテレビは、カラフルな映像だけを見せていた。
彼は多分、ほとんど見ていないのだろう。
惰性の行為。
「ん。別にいつでも寝れるもん」
「俺、待っててくれてるん?」
「そぉゆう訳ちゃうよ」
不安そうに眉を顰めるから、安心出来る様に笑って見せる。
あながち外れている訳でもなくて、放っておくと無駄に夜更かしをする光一だから、眠る瞬間を見届けたいと言う気持ちはあった。
さすがに自分が本当に眠い時は付き合わないけれど。
学年では一つ年上でも、酷く不安定な所のある人だから面倒を見たくなる。
捨てられた子猫を拾って来た感じ。
自分では世話出来ないのに、それでも構ってやりたいとじっと見守る様な。
「じゃあ、俺もぉ寝る」
「うん、それがええよ」
「つよし、」
また最初と同じトーンで名前を呼ばれた。
何か言いたい事があるんだと悟って、ベッドの上に広げられた教科書を片付ける。
何か、言いにくい事。
「光ちゃんもテレビ消して、こっち来ぃ」
「ん」
素直に頷いた光一に「ええ子ええ子」と笑ったら、思い切り嫌な顔をされた。
臆病で人見知りな癖に、プライドだけはきちんと持ち合わせている人だ。
きっとこの柔らかい顔立ちのせいで周りの人間は甘やかしたがるだろうから、そう言うのを全て拒絶して来たのだろう。
甘え上手な自分とは全然違う。
でも、考え方も性格も容姿も違うけれど、光一の考える事は手に取る様に分かった。
きちんとリモコンまで元の位置に戻して、片付けたベッドの足許に近付いて止まる。
うろうろと彷徨わせた瞳に、大体の事を見通した。
「光ちゃん、どうしたん?」
「剛は、一人で、寝れる?」
思った通りの事を口に上らせた光一に、小さく苦笑を漏らす。
気付かれると不機嫌になるから、ばれない位の微かな動作。
今日はレッスンの時の風当たりがいつもよりきつかったから、精神的に参ったのかも知れない。
余り口を開いて要求する事が少ない事を、彼との日々の中で知っていた。
「一人で寝れるか」と言う問いは、要するに「一緒に寝たい」と言うおねだりだ。
中学生にもなって、と思う事もお互いあるけれど、これが一番安心出来る方法だと悟っていた。
特殊な環境で生活しているのだ。
常識的とか、普通の距離なんて模索していられない。
想像を絶する孤独の中で、お互いだけが安心出来る場所だった。
「……今日はしんどかったな。僕、一緒に寝たいわ」
甘える声を出せば、ぱっと嬉しそうな表情に変わる。
自分が甘える立場になる事。
それが光一に余計な感情の起伏を招かない最善の行為だった。
「剛のベッドでええ?」
「どっちでもええよ」
「うん」
自分が返事をする前にいそいそともう一つのベッドから枕だけを引っ張って来る。
可愛いなと反射的に思って、当たり前になりつつあるこの感情に自分で呆れた。
一つ年上の、それも同性相手に、何考えてんねん。
自分の思考が危ない場所に来ている事に気が付いていた。
けれど、余り躊躇はない。
光一なら、光一だから。
それだけで済む問題ではないのかも知れないけれど。
光一を守りたい。
純粋な感情に恋情が付随して来るのは仕方のない事だった。
この小さな身体を守る為なら、何でもする。
彼の居心地の良い場所であり続ける事。
不安な夜を一人で越えさせない事。
誓いはいつでも胸の中にある。
「俺らちっちゃくて良かったなあ」
ベッドに潜り込んで来た光一が小さく笑う。
「発育良い子供やったら、このベッド一緒入らんで」
「せやなあ。あんまおっきくならんかったら、ずっと一緒に寝れるなあ」
「いつまでも一緒はあかんやろ」
「そう?僕はいつでも光ちゃんと寝れたらええのにな、思うてるけど」
「ええの?それ」
「ええも悪いも、別に誰が決める事でもあらへんよ。一緒に寝たかったらずっと一緒でええやん」
冷たい足先が熱を求めて、自分の足に触れる。
ひやりとした感触すら愛しかった。
先に横になった自分の方を向いて、光一は優しく笑う。
「あったかい」
「せやろ?人間湯たんぽやで、僕。光ちゃんはいっつも冷たいなあ」
言いながら、足と同じ位冷えた指先を握った。
意識的な動作に光一は気付かない。
「つよがあっためてくれると、俺すぐあったかなる」
嬉しそうに笑う言葉に、身動き取れなかった。
何て事を言うんでしょうね。
付け上がるからやめて欲しいのに。
自分を嬉しがらせる天才かも知れん。
子供やのになあ。
顔を近付けても無防備な光一に少し悪戯したくなったが、それよりも安心した表情が愛しくて濃い睫毛を眺めるだけに留めた。
「修学旅行みたいやね」
「修学旅行?」
「うん。こやって、親いないとこで寝るのって林間とか修学旅行位やん?」
箱入り息子の光一は、恐らく友達の家に泊まった事もないのだろう。
修学旅行と呼ぶには少し親密過ぎる距離に、違和感を感じる事もない。
「俺、人いると緊張して寝れんから、きっと剛だけやなあ。一緒に眠れるの」
「そっか」
「手、繋いでてな」
囁いて瞼を伏せる。
包み込んだ指先をもっとしっかり合わせれば、安心した吐息が漏れた。
甘えたがりで恐がりな光一を、家族以外の誰が知っているのだろう。
確実に自分が今彼の一番近くにいるのだと自覚して、強い独占欲が生まれた。
誰にもこの場所を渡したくない。
「光ちゃん、お休み」
「おやすみ」
「眠るまで、ちゃんと見てたるから」
「ん……」
すうっと眠りに引き込まれる幼い顔。
繋いでいない方の手でゆっくりと髪を梳いた。
さらさらと零れる柔らかい感触。
大事な物を扱う繊細さで、ずっとその寝顔を見詰めていた。
+++++
失われたエデンは、今もひっそりと光一の心臓に息づいている。
あの幼い少年は、ずっと冷えた指先を持て余している筈だった。
あの場所を誰にも渡さないと願った自分と同じ位強く、誰にも触れさせなかった丸い指。
今でも光一が待ち望んでいるのはたった一人で、その無条件の愛情に逃げ出したのは自分だった。
もう、同じ所に留まってはいられない。
立ち上がって、迎えに行かなければ。
渡してくれないのなら、奪えば良い。
俺が欲しい何か、は必ず彼の中に在る。
一人の夜に昔の幻を見る位なら。
昔よりずっと臆病になった足を叱咤して、今でも尚温かい手の温度を分け与える為に。
優しい夜を求めて、俺は走り出す。
どんなに遠回りをしても、欲しい物一つだけ。
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